寒い父の命日

 昨日は春の陽気だったのに一転して今日は冬に戻った。

 空はどんよりとして空気が冷たい。 

 エアコンの暖房をつけて、掘り炬燵にしがみつくような1日だった。

 今日は父の命日だが、墓参のための花を買いに行くのもためらわれるほど寒く、明日にすることにした。

 近所の和菓子屋さんで父の好きなお饅頭をふたつ買ってきて、仏壇に供え、おいしいお茶を入れた。饅頭にはささやかな思い出があって、父が晩年、たぶん亡くなる1年くらい前に饅頭が食べたいと言った。血糖値が高めだったので、ひとつだけ食べてもらったがもっと食べたい、10個くらい食べたいと父が言ったのだ。10個はともかく、2~3個くらいは食べてもらえばよかった。あと1年も経たないうちに死ぬ人にとって体に悪いことは何もないように思う。食べたい、やりたいことをすべてやっても寿命がそんなに変わるわけがない。それよりそうしたいという思いをかなえるほうが何よりも大事だと思う。今はこう思えるがあのときは糖分を控えればもっと長生きできると思っていた。

 家にこもって、パソコンに向かい、ワードの「2024年1月の短歌」を入力した。1月の最後の数日に詠んだ短歌をまだ入力していなかったからだ。

 「2024年1月の短歌」はワードで10ページ。1ページで24~28首なので、250首くらいか。

 1月を振り返ることもした。何はともあれ過ぎてしまった1月。個人的には楽しいことも大変なこともあった。学んだこともあった。もう過去のことではあるがわたしの中に何かを残しているだろう。目の前にひろがる新しい2月を生きていこう。

 

 昨日、2月の初めの日は国会図書館に行った。2月になってはじめてとなる。図書館に着いたのはお昼ごろ。端末を使って読みたい本の閲覧申し込みをしてから、新館6階にある食堂でランチを食べた。

 ここの人気メニューは550円のお弁当のようだ。いつもソルドアウトになっている。竹輪の天婦羅がふたつのっている蕎麦にした。これもおいしかった。 

 食事を終え、2階の閲覧室に戻り、さきほど請求した本、5冊を受け取った。金川宏さんという歌人の歌集が2冊ある。どちらも読みにくい部類に入る歌集だ。『揺れる水のカノン』は現代詩と短歌のコラボレーションがなされている。もう一冊の『アステリズム』は現代詩のウェイトは小さくなり、短歌が本流となっている。

 正直言って、わからない短歌が多くて、ふと集中力が途切れたりする。だがいくつか意味はとらえがたいが、イメージが好きな短歌があって魅力的だ。

 

天窓を搏つみずの群れひと夏の紋章として咲き継ぐ百合は

 

この短歌を読んでわが花壇に咲く鉄砲百合を思い出した。梅雨の時期に花が開き、雨が降っている日に咲き始めることも多い。百合と雨は親和性が小さいと思えるのだがそんなことはないのだ。

 

覗き穴にくずれゆく雲とざされて玄関はあふるるまでのあかね

 

外は夕焼け。玄関を入れば赤い雲たちは鍵穴に崩れて玄関には夕茜の光があふれるばかり、みたいな感じだろうか。

 

ひかりにも墓場はあって布めくるときいっせいに飛び立つ鴨は

 

ひかりの墓場とは夕暮れから夜にかけての時間を思わせる。まだ闇が深くない時刻に何かの合図があったようにいっせいに鴨が飛び立つ。それを「布をめくるとき」と表したのがすばらしい。夕暮れの光の薄布か。どこかで見たような記憶がある光景だ。