雨の一日、珍しく暖房をいれる

 昨日が雨模様ならば今日はほぼ一日雨が降った。気温も低めだ。暖房のエアコンと堀炬燵のヒーターを入れた。

 4月に開いた武蔵小杉の歌会では、詠草をプリントしたものをみなさんに送ったり、歌会で司会を務めたり、自分で意識しているより負担があるようだ。今日は解放感がある。雨の一日も家でのんびりできてうれしいくらいだ。

 午前中、友だちよりラインがあり、明日のランチを約束した。実は明日は横浜美術館横浜トリエンナーレ(4年に一回開催する)を見に行くつもりだったが、何か昨日の疲れが残っているようで、チケットの予約をする気分になれなかった。そこにランチの誘いが入ったのでそちらに切り替えた。

 横浜トリエンナーレは明後日と、4月の30日や5月の1~2日、または5月の8,9,10日あたりに行くことにした。これは全世界から現在活躍中の現代美術家が参加する現代美術展で(なかには存命でない方もいるかもしれない)、美術を鑑賞しながら自分自身の4年間を振り返ることができ、とても有意義な時間を持てる。

 さまざまな視点から現代や人間や歴史や自然を形あるものとして見せてくれる。

 一回で全部を見ようとすると気持ちとからだに負担がかかるので、数回行くつもりぐらいで見に行こうと考えている。

 午前中には別の友だちにラインを送った。わりとラインのやりとりがスムーズに行かないことが多いが、前より気にならなくなった。

 昼食後には昨日の歌会を休会した人から電話があって、個人的にはこの人はもうずっと休むのではないかと思っているが、本人は休んでばかりで申し訳ない、次の歌会は体調がよければ行きたいと話した。本人がそう話しているのだから、体調がよくなることを願っている。からだの調子のことは他の人にはわからないが、どうしても出かけるのが無理と思う時はでかけないほうがいい。わたしだって他人になんと言われようとそうするだろう。

 雨の中、郵便受けを見に行くと、名古屋の知人からの手紙が入っていた。先週の水曜日に季刊の短歌誌「しらぬ火」を知人に送ったが、それを読んだ感想も書いてあった。驚きである。今日届くとは!先週の金曜に届き、土曜か日曜に手紙を投函し、今日届いたのだろう。東京で水曜に投函し、名古屋に金曜日に届くのが驚く。

 というのは岡山市の知人に同じものを同じ日に投函したが昨日火曜日に着いたとメールがきたのだ。名古屋市岡山市、そんなに東京からの遠近が違うのだろうか。いままでは手紙や葉書が先方に着く日数はほぼ同じと思っていた。

 九州になると話は違って、岡山市よりさらに遠い。いったいどのくらいの日数がかかるのだろう。

 解放感を味わいつつ、疲れも感じながら家でのんびり過ごすのはとてもいい過ごし方だ。刺激を受けて世界をひろげようと思えるまでエネルギーをチャージしたい。

 

雨模様の日、武蔵小杉の歌会に行く

 体感温度は昨日より肌寒い。長袖を三枚着て、武蔵小杉の歌会にでかけた。

 出かける前にいくつかの準備をした。

 歌会は月に二回あるが、五月の歌会のどちらかを欠席するかもしれないので、五月の歌会に出す短歌を前もって原稿用紙に書いて、自分で宛名を書き切手を貼った封筒に入れた。五月の二回の歌会分と六月の最初の歌会の分まで、計三回の歌会に向けて計9首の短歌を三首づつ原稿用紙に書いた。歌会を休むと次の歌会のための短歌を郵送したり、電話で送ったりが大変なのだ。ラインやメールをいつも使っている人ならば、事は簡単なのだがメールやラインをほとんどやらない人たちなので短歌を送る手段が限られる。

 FAXで送ればいいのだがわたしの家のFAXがこわれてしまい、ほとんど使わないので歌会のためだけにFAX付電話を買う気になれない。

 歌会に出したみなさんの短歌からいいと思う短歌を5首選んだ。これも準備のひとつである。

 午後1時からの歌会に出席した人は5名。最近の2回の歌会は4名だけだったので1名増えたが、休みが常態化している人が2名いて多分もう出席することはないだろう。

 そろそろ歌会そのものを手仕舞いする時期にきているのだろうか。

 今日の歌会の司会はわたしが務めた。参加した人のひとりが3時までしかいられないと言うので、速めに歌会をすすめ、3時少し前に歌会を終えることだできた。

 広い教室みたいな会場は5時まで借りているので、途中で帰った人をのぞいてみなさんとしばらくおしゃべりをした。会場のレンタル料は1700円あまりから2100円くらいまで幅があるが、参加人数が少ないので、会場費を支払って歌会をやる意味があるだろうかという話になった。

 誰かの家とか、喫茶店とかで歌会を行う方法もあると。だが誰もわが家でとは言わないし、喫茶店は歌会が開けるようなところだと500円以上のコーヒー代が必要で、人数分を掛けると会場のレンタル料とほぼ同じ金額がかかる。それだったら今まで通りのほうがいいと暫定的な結論となった。

 耳が遠い人がいるので(ほとんどの人がそう)、喫茶店は周りの声があり、聞き取りにくいかもしれないという問題もある。

 3時半ごろお開きになり、わたしともう一人の女性は夕食の買い物をした。ひとりは歯医者の予約があるとバスに乗って行った。

 買い物を終えわたしは電車で最寄り駅へ。駅前のよく行くケンタッキー・フライド。チキンの2階でブレンドコーヒーを飲んだ。

 街には濃いめの桃色のオオムラサキツツジの花があちこちに咲いている。わたしの今日の服装もツツジのような色のゆったりとしたカーディガンだ。移ろいゆく季節を全身で感じた一日だった。

朝は小雨が降り、昼頃は陽ざしも出た

 朝から小雨が降っていて、長袖2枚でもやや肌寒い。

 雨に濡れた若葉がきれいで、家で過ごすのも悪くないと思う。

 明日の歌会の準備と、月末締切の季刊の短歌誌に送る短歌を考える。季刊の短歌誌に送る10首は仮にまとめてあるがまだまだ考える余地があって、差し替えたほうが良さそうな短歌もいくつかある。すべてをふくめてもう少し考える時間がほしい。

 明日の歌会時が締め切りの短歌3首はが五月の歌会のためのものだ。こちらはあまり詰めて考えずにこんな短歌ってどうだろう、という自分のなかの冒険心をふくんだ短歌を出すことにしている。ときに超保守的な短歌もまじるので、そのときの気分次第ともいえる。

 冒険主義で行くか、保守傾向でいくか、こじんまりとした歌会の魅力はいくらでも冒険できるところにあるというのがわたしの考え方。 

 ただ、自分の短歌を見てそんなにいいとは思えないところがある。冷静さを保って短歌に対したい。

 買い物以外は家にこもって過ごした月曜日。

 昨日は外出はしなかったものの庭に出て、敷地の境目に植えた南天を盛大に切った。外は車が通れない小道でそこを歩く人から庭が見えないように南天の木が目隠しをしていたが、剪定したために透けて見えるようになった。こちらからも前より見えるようになった。風も通るようになった。葉っぱの透け感はこれから暑くなる季節に大切なものだ。葉が重なり過ぎて風も通らないのは好きでないから。

 一日が終わりかけて、今日はこれをやったというのがない。考え中のことだけが残った。引き続き考えるだけだ。

 夕方は小雨は降っていなくて曇天、お昼ごろは短い時間だが陽ざしが出た。はっきりしない天気だった。

 

 

 

見晴らしのいい高台のやうな土曜日

 いつもいろいろなことを引きずったまま土曜日を迎えることが最近多かったが、今日はどこかすっきりした気分である。

 ヨーロッパではウクライナに侵攻するロシアが優勢になるという厳しい局面を迎えているし、中東ではイランとイスラエルの戦争が始まる可能性を無視できない情勢になった。

 見晴らしのいい高台に上ったところで、そんなにいい景色は眺められそうにもないが、気持ちの上ではある区切りをつけて土曜日を迎えられた。

 本当は家にいて、短歌作りに励んだほうがいいのだが、家にいてもいい短歌が詠めそうもないと感じたのでかけることにした。

 読みたい歌集があったので、国会図書館に行くことにした。

 いつもより早い時間が着くようにした。土曜日は平日よりも人が多く、資料を検索する端末が置かれた席が満席に近いこともあるからだ。

 実際、11時少し前に図書館に着いたが席を探し歩いてやっと見つけた。

 閲覧請求した資料は、睦月都さんの歌集『Dance with the  invisibles』と大森静佳さんの『手のひらを燃やす』、黒木三千代さんの『草の譜』、短歌雑誌は「歌壇」「短歌」「短歌研究」の4月号である。

 結局、全部読んだのは睦月都さんの歌集だけである。雑誌は拾い読みした。

 4時ころまで図書館にいて、行きと同じ電車に乗って二子玉川に出た。

 二子玉川は人でごった返していた。お店に入る気にはなれず、数日分の食事の買い物をしてからバスに乗って帰った。 

 

家にいて短歌を読んだり作ったり

 昨日より気温は低く過ごしやすい一日だった。午前中は掘り炬燵のヒーターを入れた時間があったが、ほとんど暖房なしですんだ。

 朝から髪の生え際や口元、目元など顔の一部に赤い斑点が出たので、あまり調子がよくないと感じた。

 それでもNHKプラスを利用して、ふたつのテレビ体操をやった。計15分ほどである。

 これ以外は植木鉢の水やりとめだかの餌やりとデジカメで写真を撮る以外は外に出なかった、外といっても庭に出ただけだ。

 居間でパソコンに向かってインターネットで短歌を読んだ。今週の水曜日に受けた講座の講師をつとめた歌人の睦月都さんの短歌である。橄欖追放というサイトで、睦月さんの最初の歌集を紹介していたのを読んだ。『Dance with the invisibles』という歌集である。

 この文章を読んで実際の歌集を読みたくなった。読んでみたい歌集が多くなって、どうやって手に入れるか、図書館で読むかなど、読むための方法を考えている。あまり家に本を置きたくない気持ちがあり、できれば図書館で読みたいのだが、、、

 水害に見舞われ、水をふくんだもろもろの物を捨てたとき、身辺にあまりたくさんのものを置かないようにしようと思ったのである。洋服も捨てながら買っている。

 短歌に関する文章を読むだけでなく、季刊の短歌誌に向けて10首の短歌をどれにするか、あれこれ悩んだ。奈良の旅をテーマにする場合、どのような短歌を選んで構成すればいいのか。旅を詠む短歌は難しい。見る景色はいつもの日常とは違うが、それをあてにしすぎるとつまらない短歌ができてしまう。かえって日常を詠う方がうまくいくところもある。

 いちおう10首をまとめたがまだまだ考えなければいけないところがいっぱいある。

 昨日は友だちと会ったわけではないが、友だちへの連絡、友だちからの連絡が集中した日で、思い返してみるとわたしの友だちの8割くらいの人とやり取りしたり、届け物が来たりした。友だちといえる人はそんなに多くない、知人ならそれより格段に多いが。

 昨日やりとりした友だちから朝、電話があったが声が風邪声で元気がなくて驚くと同時に心配になった。二日間に仕事を休み、昨日から仕事に戻ったという。電話の声を聞くとまだ仕事ができるような状態ではないように思えた。

 この友だちとラインも何回かやりとりした。こんなときに手を貸してくれてありがたいけど申し訳ない気持ちもある。

 

紅梅の木の根もとに姫うつぎの花が咲き始めた

花壇の一画では白い花と黄緑の葉の対比がきれい

花壇の全体はこんな感じ

オオムラサキツツジが満開

コデマリの白い小さな花が群れてきれい

白い花の都忘れ、濃い紫の花もあるがこの庭にはない

八重の山吹とオオムラサキツツジのつぼみ(花色が違うと咲く速度も違うらしい)

赤いツツジとこれから咲くオオムラサキツツジ

柿若葉がきれい

 

家でのんびりしつつ、メールやライン、電話でやりとり

 午前中は陽ざしがたっぷりだが、気温が上がらず過ごしやすかった。午後からは雲が多くなり、天気が崩れそうな空模様だ。

 午前中は昨日、季刊誌を送った友だちにメールで来週届くことを伝え、昨夜の講座に家庭の事情で来れなかった人にメールを送った。

 月曜にラインを送り、返信がなかった友だちかラインが入り、体調を崩していたと伝えてきた。この友だちは4月のはじめに家に来てくれて奈良の旅のことなど話したが、三月は忙しくて三日間しか休みととれなかったと言っていた。仕事は嫌いでないので仕事漬けでも嫌ではないがからだは疲れると言っていた。やはり体調を崩したのかと思い、案じていることを伝えた。この友だちとは電話でも少し話した。

 別の友だちからは宅急便が来たが不在票が入っていたのでドライバーに電話をして再配達してもらった。毎年、今頃になるとオリーブオイルを送ってくれる。受け取ってすぐ届いたこととお礼を伝えるメールを送った。

 午後からはエアコンの業者が来て、今使っているエアコンの部品交換をした。昨月、家に来てもらい、その時は修理は必要なかったがエアコンの中を見て錆が出ているところがあり、交換したのである。保証期間中なので、部品や出張費、工事費は無料だった。今年の12月に保証期間が切れるので、ちょうどいいタイミングだった。

 業者さんが帰り(2時間半ぐらいかかった)、ほっとしたと同時に昨日の外出の疲れが出てきた。といっても昼寝はせずに家でぐだぐだ過ごした。

 夕方には別の友だちからラインがあり、しばらくやりとりをした。

 もう一人、浜松の友だちから気が向いたら花博を見に来ませんかラインが来た。花博に妹さんたちと行った写真が添付されていた。

 友だちからラインがあったり、こちらからメールを送ったり、電話で話したり、家にいながらいろいろが交流があった一日だった。

阿木津英『天の鴉片』の講義を聞く

 ところにより雨の予報、日中は降らなかった。夜も降らないことを祈る気持ちだ。折り畳み傘を持って来なかった。

 夜6時から8時の講座を聞きに行った。現代歌人協会主催の公開講座である。月に一回、6ヶ月にわたり行われる。

 今夜は初回で阿木津英さんの歌集を講義する。現代歌人協会賞を受賞した『天の鴉片』(てんのあへん)という歌集だ。

 講師は歌人の睦月都さん。作者の阿木津英さんとの対談もある。

 講座は盛況で、主催者が用意した資料が足りなくなり、追加のコピーをしたほどだ。

 睦月都さんの講義もおもしろかつたが、いちばんひきつけられたのは阿木津英さんの話である。熱はのある言葉に魅せられた。

 満席の参加者は誰もが満足したのではないだろうか。 

 女歌ということばや概念をわたしは好きでなかったが、この言葉で表したいことが阿木津さんの話でより明確になった。これだけでも大きな収穫である。

 聴覚に自信がないので、1番前の席に座ったが、隣に阿木津さんが座られた。