陽射しが出たので紫陽花の枝を切る

 一日雨が降らない。梅雨の晴れ間。

 湿度が高く、気温も上がって蒸し暑い。

 庭の植木鉢を陽射しがあたるところに移動した。

 平鉢に植えた鷺草から花芽が伸びてきた。例年通りの成長である。鷺草の植木鉢は4つあるが、一つは花芽がなく、あと3つは花芽を確認できた。大きな平鉢に植えた鷺草がいちばん花芽が多い。

 朝早く、斜め向かいの家のご主人が紫陽花の枝を切っていたので、それを見てわたしも早く紫陽花の剪定をしようと思った。雨の日が続いたので晴れ間が短い間でも出るとからだを動かしたくなる。

 朝食後、洗濯をした後、庭に出てまず額紫陽花の大株の枝を切った。紫陽花の剪定はわりあいと楽だ。花が終わると、新芽が出るのでその新芽の上で枝を切ると来年の花が咲くといわれている。ただ、そうするとあまり枝を短くできないのでどんどん木が高くなってしまう。混み合っている枝や高くなり過ぎた枝は短く切るようにしている。

 額紫陽花とふつうの紫陽花合わせて6本の紫陽花の木の剪定をした。切った枝を紐で束ねたり、短いものはゴミ袋に入れた。枝を束ねたものは4束。45Lの袋一袋を使った。

 昼食後はパソコンを開きワードで、この10日あまりに詠った短歌をまとめた。

 今月は季刊の短歌誌に8首の短歌を送ることになっている。いつも締め切りぎりぎりまで8首の歌が決まらないことが多い。今回は少し早めに8首を決められればと思う。それでもぎりぎりまで他の歌にさしかえるのはありにしたい。

 

 

 

紫陽花の絵、背景の色を塗って完成

今日もしとしとと雨が降る一日。雨が降りながらも空が明るくなる時間とどんよりと暗くなる時間がある。

 午前中、近くの特別支援学校に行き、校門横の売店で採れたての野菜を買った。獅子唐、ピーマンミニトマト、モロヘイヤ、茄子、キュウリを各一袋づつ。 

 学校は夏休みに入るので売店やカフェの営業は今日までだ。

 雨が降っているためかカフェはそれほど客が来なかった。ここによく来る知人のひとりがハモニカで三曲演奏してくれた。ビートルズの「レット・イット・ビー」、「コンドルは飛んでゆく」、最後に「茶摘みの歌」で締めくくった。知人の故郷はお茶の産地として有名だ。

 しばらくカフェで美味しいハーブティーを飲んだり、知人や友人ととりとめのない話を楽しむのもお休み。中休みがあると気持ちを新たにまた会えるのでそれはそれでいい。いやそのほうがいい。人との付き合いが苦手なので時間を置いたり、距離をおくことでなんとか長続きをさせられるところがある。

 完成していない紫陽花の絵をみなさんに見せると、紫陽花についてあれこれ話が盛り上がった。

 家に帰り昼食を食べた後、紫陽花の絵の続きを描いた。

 その前にインターネットでゴッホが描いた花の絵を検索した。部屋の中で描いた花の絵にはかならず背景の色があり、どんな色を使っているのか見たかった。今まで知らなかった絵がヒットした。参考にしようという花瓶に活けた花ではないが、空に向かって咲いているアーモンドの枝と花の絵で、ゴッホがこういう絵も描いていたのか!と感銘を受けた。アーモンドの枝ぶりや花が精緻に描かれ、その背景の淡い水色の空の美しいこと!

 早春に葉が出る前に咲くアーモンド。ゴッホは日本の梅と重ね合わせたのではないだろうか。晴れやかで愛らしく、ゴッホの弟の初めてのこどもの誕生を祝福する気持があふれている。この絵を描いた半年後にゴッホは亡くなっているとのことだ。

 来春は澄みきった冬の空を背景に咲く梅の花を描いてみようと思った。

 今描いている紫陽花の絵の背景の色は水色と黄色にした。紫陽花の学名、ハイドランジアはギリシア語で水の入れものという意味を持つと聞いたことがあるので水の色を。黄色は希望の色、光の色だから。

 

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庭の紫陽花の絵。7割ほど描けた。

 今日も雨が降ったり止んだりの一日。雨が止んで薄日が出る時間があり、昨日よりは空が明るい。

 お盆の最後の日はのんびり過ごした。

 毎月2回歌会を開いているが、歌会を指導する先生が肺炎になり入院中であるのが気がかり。

 先生の奥さんから入院を知らせる電話を受け取った歌会の仲間に電話をして、話を聞いたがあまり新しい話はなかった。

 夕方遅い時間に歌会の運営を担う人から電話があり、今日先生の奥さんが電話して聞いた話をしてくれた。肺炎は良くなっているがまだ2~3週間はかかるとのこと。肺炎だけでなく、他にも良くないところがあるとのことだが具体的には何なのかわからいないようだ。

 2~3週間という時間は退院するのに、ということだろうか。先生が回復されるのは1~2ヶ月はかかりそうな気がする。ご高齢であるし、他にも病をお持ちなので無理はできない。

  元気になられた先生ご自身から歌会の運営者に電話がある日を心待ちにしたい。

  

  雨が降っている日中は居間で昨日スケッチした紫陽花の絵の色付けをした。紫陽花の花は色付けが難しい。水彩色絵具は薄い色から塗って、少しづつ濃い色に重ねていく。はじめに濃い色を塗ると、薄い色に変えることができない。薄い色を塗ってから影などの濃い色を加えたり、重ねていく。

 午前中と午後にかけて色付けをして、7割ほど描けた。あとは葉っぱの色や葉脈を加え、背景の色を決めて塗るだけ。花の色にも少し手を加えるかも。

 

   お盆の送り火は8時頃焚いた。6時頃、おがらを千切って用意していたためか、マッチの火がなかなか燃えつかない。マッチも長雨の日々に湿っていて火がつかないものが多い。しかたなく、新聞紙を千切りおがらの下に置いて火をつけた。それでも燃え広がり方が弱く、燃えきることがなかった。  

 煙はいつもよりもうもうと出て、その煙を見てこれに乗って帰るのかなと思い、夜空を見上げた。

 

   

 

わがために朝のスープを作りたり長ねぎぱちぱち厨に香る

 

咲き残るあぢさゐ三枝を花瓶に活け鉛筆に描くひしめく花を

 

 

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紫陽花の花のバランスが良くないのか、花瓶の描き方に問題があるのか、右側に傾いているような感じがある

 

庭の紫陽花の絵を描き始める

 梅雨はまだ続くがわが家んの紫陽花はそろそろ終わりか。色褪せた花が多くなったが他の花より遅れて咲いてまだきれいな色の花が何本かある。その2本を切って、さらに柴犬レオに手向けたまだきれいな紫陽花と組み合わせて絵を描くことにした。

 居間のテーブルに置いて、午前中と午後の数時間をかけで鉛筆で下描きをした。

 紫陽花の装飾花は4枚の花びらが数えきれないほど重なって、手毬のかたちになっている。花びらがひしめきあっているといってもいいくらいだ。

 これをそのまま写しとるのは至難の業なので、そんなことはしないがたくさんの花びらが重なって見えるように描くことにした。

 紫陽花の色付けもかなり難しいので、今日は鉛筆スケッチだけにした。

 花はあまりに日数をかけて描けない。色や形が日々変わるから。紫陽花は花のなかでは日々の変化が少ないほうだが、気がつくと花びらの縁が茶色を帯びていたりするのでなるべく早く描き終えたい。

 居間の食事をするテーブルに置いて描くので、早く描かないとパソコンをテーブルの上に乗せられない。ノートパソコンを床に置いてこのブログを書いている次第。

 

 紫陽花の絵は難しいが、柴犬レオや老犬ももこがいた頃よく描いた。今見ると拙い絵と思うが、なつかしい絵でもある。

 今年の紫陽花がどんな絵になるか。歳月が絵に反映されるかどうか。

 レオやももこもわたしの絵を見守ってくれているにちがいない。

 

 

お盆を迎えて

 曇天で夕方から小雨が降りはじめた。梅雨はまだ終わりそうにない。

 1週間かけてお盆を迎える準備をしてきた。

 東京は今日からお盆である。

 午前中、花壇の鉄砲百合を2本切り、百日草とエキナセアをそれぞれ1本づつ切った。犬たちのために紫陽花を3本とミニバラ1本を切った。

 盆棚に一対の花入れを置き、紫陽花や鉄砲百合を活けた。柴犬レオや老犬ももこのk瓶にも新しく切った紫陽花を加えた。犬たちはいつもわたしのそばにいるような感じを持っているので、お盆だからこの家に来るという感覚はないがやはりきれいな花にしておきたい。

 お昼近くになり近所にある菩提寺に墓参りに行った。

 いつもは閑散としている寺だが今日は人が多い。家族で墓参に来ている人もいる。

 お供えの花は寺に用意されているのでそれを買い、花立に手向けた。お盆はわたしのなかでは世間の習わしみたいなものだが、この時期に父母の墓に花がないのは寂しいだろうと思って墓参に来ている。ほんとうは誕生日や命日、父や母に話しかけたい時に墓参に来る方がいいと思っている。

 また、一年に一度里帰りをする霊魂の父母を迎えるのもいいと思っている。そのたびにこの家にいた頃の父や母を思い出すことができるから。積もる話はあるのだが話せない父母がこの家に来るだけでもいい。

 寺から帰る道は川沿いを通り、その川に顔なじみの白鷺と,軽鴨の親子がいた。軽鴨は親が一羽、子供が一羽。母一人子一人で、例年たくさんのひなを連れているのを見慣れている目には寂しく映る。こちらが勝手に顔なじみにしている鷺は二か月ほどこの川に見かけなかったが多分、巣作り、子育てをしていたのではないかと想像している。この白鷺と別の白鷺が二羽で飛んでいるのを見たからだ。

 また一羽に戻った白鷺は前と同じようにえさを探す毎日を送っている。こころのなかでいつも応援している。

 午後に弟から電話があり、家に来ると言う。郵便物を渡し、少しだけ話した。仏壇にお線香をあげてくれた。いつものようにお菓子を持ってきてくれたのでお供えした。

 弟が帰った後、いつもは車で行く駅前のスーパーマーケットに歩いて行った。道すがらいろいろなものを見ながら歩くの好きだ。湿度が高いが時折いい風が吹く。

 母親の好物、枝豆を買い、ビールも買った。帰りは途中から小雨が降り始めた。

 迎え火はあまり暗くならない時間に炊いた。7時頃だろうか。あっという間に細かく千切ったおがらが燃えてしまった。ほんとうに短い時間で、ろうそくに火を移す間もなかった。火を焚きながら、二匹の犬がいた頃のお盆をふっと思い出した。 

 

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庭から切った花を手向けた盆棚、昼間撮った写真

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川で見た白鷺

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川べりの石を敷いたところに軽鴨の親子がいる、こどもはだいぶ大きくなった

 

茗荷が出た

ほぼ一日中、雨が降っていた。

小雨になったとき庭に出て、庭の数か所に植えた茗荷の根元を探した。

隣家の境、隣から侵入した茗荷の根元にまるまるとした茗荷を見つけた。ここは土がやわらかく、しかも雨続きなのでたくさん出ている。

 目につくものを採り、泥だらけの茗荷を水場のホースから出る水で洗った。

 今夜の冷奴の薬味にしよう。

 昨夜はなかなか寝付くことができず、12時半ごろ布団から起き上がって,居間に行きパソコンをいじったりした。2時頃になってようやく眠りについた。

 朝は6時前に目が覚めて起きた。燃えるゴミを出す日なので、雨の中、集積所まで運んだ。途中。道路に出るスロープ状の庭道に落ちたけふちくとう(夾竹桃)の濃いピンク色の花びらを拾った。雨に濡れたのを踏みつけると乾いた時はがせなくなるから。

 睡眠不足は午前中はあまり感じなかったが昼食後しばらくして眠くなり、仮眠をとった。

 睡眠不足だとものの感じ方が悲観的なるような感じがある。

 図書館から借りてはきたもののなんとなく読む気になれず、放置していた『セクション歌人26 東直子集』を昨日の夜から読み始め、今日の昼間も読んで夕方に読み終えた。

 口語の新仮名遣いの歌が妙に新鮮で、そこに詠われている世界に親しみを感じられるものがいくつかあった。

 収録されている第一歌集「春原さんのリコーダー」の中に、文語旧仮名遣いの歌が「つゆのてふてふー旧かな文語集」として十首おさめられ、これを読んでいたら自分でもなぜかわからないのだが憂鬱になってきた。

 文語旧仮名の言葉使いを楽しんで作っているような歌が並び、ふつうに文語旧仮名の歌を詠もうとしているわたしには口語新仮名との違いがパロディのように思えたからかもしれない。

 文語旧仮名遣いの短歌の独特の言い回しがわたしのような短歌の新人(年はとっているが)にも見覚えのあるものが多く、アララララ…と思ってしまった。

 しかしこんなことで憂鬱になっても、しかたない。。 

 ゆくゆくは口語の歌も作ってみたい、口語と文語をミックスした歌も作ってみたいと思っているので。もちろん、文語旧仮名遣いの歌はずっと詠っていくけれど、自分の生い立ちや日常と離れた言葉が多いのが気になっていた。あまりに新仮名遣いと離れている言葉はあえて使わないようにしていたが、東直子さんの文語旧仮名の歌はあえて新仮名とかけ離れていることばを選んで詠っているので、旧仮名文語が際立っているといえばいえる。

 明日は東京は盆の入り。例年だと花屋で百合を二本買い、庭の紫陽花その他とあわせて盆棚に手向けるのだが今年は鉄砲百合が咲いているので、その百合を手向けることに。 

 夕方庭に出て紫陽花を数本切った。百合は明日の朝切ることにしよう。

 

細き茎の草おしなべて川面へと倒れ街川は身をすぼめてゐる

 

 

 

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今日庭で採った茗荷

 

朝顔がひとつだけ咲いた

 昨日は雲が多いにしろ青空がのぞいたが、今日はどんよりとした空となった。

 引き続気温が上がらず半袖に何かをはおりたくなる。

 いつも行く近所の特別支援学校に、わたしが描いたすももの絵を三点持って行った。最近描き終えた紫陽花苑の絵も持って行った。

 紫陽花苑の絵はスケッチブックの二枚目に描いてあり、一枚目には4年弱前描いた日比谷公園にある洋館の鉛筆スケッチが残されている。

 紫陽花苑の絵よりその洋館の鉛筆スケッチが評判がよく、ちょっと複雑な思い。

 この絵は東京の近代建築絵画展に出展しようと描いたものだが、その展示会が中止になってしまい、未完成のまま放置していたものだ。水彩色絵具で彩色して完成とするはずだったが、中止を聞いて描き続ける気が失せてしまった。

 当時は、老犬ももこが家にいて、ももこに留守番をしてもらって日比谷公園にでかけた。未完だがなつかしい思い出のある絵である。

 この絵は今日まで誰にも見せたことがないが、見てもらったら思いがけなく評価された。色付けをしてもいいが、このままでもいいと。

 人に見てもらうことで未完成の絵が未完成のまま完成したのかもしれない。

 人に見てもらうことで、老犬ももこと暮らしながら絵を描いていた日々が評価されたような気持ちになり、ももこへの思いを新たにすることもできた。

 日照時間が短くて、5月に定植した草花の成長が思わしくない。そんな中で朝顔がひとつだけ咲いた。例年に比べて早いのか遅いのか。

 つるを盛んに伸ばすがつぼみをひとつもつけていない朝顔があるのも気がかりだ。この朝顔は老犬ももこがいた夏(2016年)に咲いたもので、うすい桃色の花を咲かせる。今年も咲いてほしくて、去年種を採取したが種があまりできずに一つか二つくらいしか採れなかった。生命力が弱いのかもしれない。花の色によって種がたくさんできるものとそうでないものがある。

 

 二か月ほど見かけぬ鷺が街川に戻りすぐさま餌を探しはじむ

 

 映画『日々の名残り』で、執事の男性と昔あわいロマンスがあった女性が再開した後、別れる場面を詠んだ。女性の立場から詠んだ。

 遅れてほしきバス定刻に来れば君との別れ少し早まる

 

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