塚本邦雄を読んでいるときに玄関のチャイムが鳴って、、、

 昨日とは大違いに寒くなった日曜日。昨日が暖かすぎたので、今日の気温はたぶん平年並みか少し高いくらいだろう。

 ほとんどなにもしないて日曜日をのんびり過ごした。

 居間のテーブル回りにいつのまにか溜まってきた紙類を整理した。かって参加した歌会の資料や、今も参加している二つの歌会の資料、横浜と新宿の短歌教室の資料、、、整理をしながら今年一年を振り返った。

 ことしは自分の現在の居場所にあきたらなくなってあちこち動いた一年だった。そしてたどり着いたのが来年も受講するつもりの小池光さんの短歌教室だ。これとて、わたしの居場所の一つと思っているわけではないが、いまのところ続けていく気持ちがある。

 結局のところ、自分の気持ちが大切である。どこに向かっているのか、ここでいいと思っているのか。

 自分の気持ちを軸にして、残しておきたい資料、捨ててもいい資料をわけたい。

 整理をしているときに小池光教室で知り合った方から借りている結社誌「短歌人」の12月号が出て来た。いつか読もうと思っていたが目に見えるところにないとので、いつの間にか忘れてしまった。

 この中で特に読もうと思っていたのが、前衛短歌を世に問うた塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』を「現代短歌の≪口語化≫の始原として読む」と言うタイトルの評論だ。作者が小池光さんの短歌教室に参加されている方で、とても興味のある内容を書かれている。

 集中して読み始め、興味がさらに深まるその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

 現実に引き戻され、扉を開けると近所の神社からお札と人形の紙を持ってやってきた。不機嫌な顔のまま応対したと思う。

 さらにこの評論を読み終わり、塚本邦雄の『水葬物語』の抜粋したものがあったのでそれを読んでいると、もういちどチャイムが鳴った。二階への宅急便だったので、二階に持って行くように言った。

 自分で集中を解くのは自然だが、他人や何かの物音に集中を乱されるのはすごく不自然な感じがある。こんちくしょうである。だがわたしも誰かのこんちくしょうになるにちがいない。これをお互い様というのだろう。

 昼食しばらくして昼寝をし、夕方は散歩に出た。

 家にこもる日でも、一日に一度は外に出て歩きたい。朝でも昼でも夕ぐれでも夜でもいいが、空を眺めたり、イルミネーションを眺めたり、けっこう楽しい。

 今日はきれいな三日月と夕景の富士山、対岸の高層ビル群の夜景に出会えた。