降り降らずみの雨、というのだろうか。降っているような降っていないような、降っては止む雨がほぼ一日降っていた。
近くの肉屋さんやコンビニに行くときも、折り畳み傘を持って行ったがどちらも差さないですんだ。
暖房は掘り炬燵のヒーターだけをいれて居間にいた。
昨夜は靖国神社の献詠歌(子という題詠)を1首、墨で和紙に書き、さらに楷書で投稿紙に書いたものを封筒に入れ、速達で送った。ぜんぜん自信がないが、毎年送っているので送ることにしたのである。ただ、こういう姿勢で短歌を続けることはよくないと思っている。
送るところがあるから、出すところがあるから、短歌を詠んで、これでいいのかどうか自信がないままに送る。これでいいのかどうか、というより、自分がいいと思う短歌を送ればいいのだが(例え、他の人が何と言おうとも)、自分でいいとも思わない短歌を送るところが問題だ。
まず、自分が自分の短歌をいいと思い、その自分を高めてさらにいい短歌を良しと思うようにしていく。自分の眼を肥えさせることは大切だ。これではよくないという確かな目が自分のなかにあってこそ、いい短歌を詠めるのだ。
こういう思いを抱えて、今日はパソコンに向かい、「4月の短歌」(ワードのファイル)にいくつかの短歌を入力した。短歌ノートに手書きしたり、直にパソコンに入力したり、ラインで入力したり、最近はいろいろなやり方で短歌を詠んでいる。外出先ではラインが多い、以前は手帳に書き込んだものだが。
昨日開いた短歌会の次回の分の短歌がみなさんから寄せられ、それらをパソコンに入力する仕事も昨夜行った。今日は、自分の短歌を3首、空けたところに入力した。全18首の短歌をぜんぶ入力し終えた。後でもう一度見直して校正し、間違いがなければ明日、プリントしてみなさんに送るつもりだ。
自分で詠んだ短歌3首は明日までぎりぎり考えて、別のものに差し替えることもあるだろう。
花びらのやうにわたしのこころのうちあなたが静かに降りつもりたり
一枚は一つの思い出わがうちに花びらのごと降りつもるひと
朝の庭若葉はずんと大きくなり庭のすきを埋めるごとし
天井の低きシェルターの分娩室 生まれし子らに未来を渡せ