おだやかな秋の晴天が続く。青空にはうすい雲が白くたなびいていて、天気が変わる気配もない。
日中は買い物以外はほとんど家にいる。居間の炬燵に入って、短歌をいくつか詠んだ。インターネットで好きな歌人の最新の歌集を検索して、それについて書かれたブログを見て回った。
永井陽子さんの短歌を深く読もうと気持ちを傾けながら、現代の歌人の短歌にも目を向けている。思えば永井陽子さんが亡くなったのは20年前。かなりの歳月が流れ、短歌の世界も同じところには留まっていない。
永井陽子さんの短歌を今読んでもまるで昨日に詠んだ短歌のように感じられる。この方はいわゆる時事詠を詠んでいないので、あれは1992年のことだった、みたいな読んだ人に過去を振り返させる作用がない。
このことが短歌を読んでいて、とても心地よい。以前、栗木京子さんの歌集を読んだ時は、その歌が詠まれたころわたしは何をしていただろうと自分を重ね合わせて読んでいた。だが永井陽子の短歌にはそのようなことが一切ない。
純粋に短歌の世界を楽しむことができる、そういう歌で成り立っている。
昼食後、今日は昼寝をすることなく今に至っている。
先ほど庭に出て、チューリップの小さな球根を植えた。今年の春咲いたチューリップの球根を掘り起こしたものだ。数年前から何度も掘り起こして咲かせ続けた球根もある。
老犬ももこが亡くなった2016年も、ももこがいた春に咲いていたチューリップの球根を掘り起こし、その秋に植ええ、翌年の春に咲かせた。その球根が何年かは花を咲かせ続けたが今はもう残っていない。こんなことを考えて寂しくなった。
小さな球根を植えるコンテナは丸型の浅めのもので、ももこがわが家にやってきた2015年の春にも同じコンテナに植えてあった。広縁で眠るももこの先に赤や桃色のチューリップが咲くこのコンテナが映っている写真があり、これを見るたびにこんなおだやかな春があったのだとせつなくなる。
ももこは何事もなく眠っていて、庭にはまだ早い春の光があふれていて、チューリップは平和そのもののように咲いている。こんな光景、にどとわたしには訪れないだろう。