激しい雨の中、武蔵小杉の歌会へ

 ほぼ毎日のように天気が急変し、雷が鳴り、梅雨の最後を思わせる。

 今日は武蔵小杉の歌会がある日。お昼過ぎ家を出て多摩川の土手を走るバスに乗るためバス停で待っていたとき、ぱらぱらと雨が降ってきた。

 バスが最寄り駅に近い終点に着いたときは、傘を差しても濡れるほどの雨だった。

 数分歩いて駅に着き、改札を入り、ホームへの階段を上る時、轟音のような音が聞こえて来た。耳を疑うような音だ。

 ホームに着くと、目の前の公園の豊かな木立の山が白っぽく見えるほどの強い雨。この雨から轟音が響く。あっけにとられて、やや血の気が引く思いで豪快な雨を見ていた。このほどの激しさ。人間にもこんな激しさがあるのだろうか。自然にだけある激しさなのだろうか。

 雨の圧倒的な量も沈黙を誘う。ホームで電車を待つ人たち誰もが雨の圧倒的な力にことばを失っていた。

 ホームの真ん中でないと雨のしぶきが殴りかかる感じ。

 やがて電車が来て、雨の中の孤立からレスキューされた。

 武蔵小杉駅に着き、改札を出ると雨脚はだいぶおさまっていた。

 中原市民館は現在、コロナワクチンの接種会場になっているが一部の会議室だけ一般に開放されている。わたしたちの歌会はその一部を抽選で予約して使っている。

 歌会に集まった人は6名、歌だけ参加する人が1名。17首の短歌を3時間余りかけて、前半と後半に分けて、全員で講評し合う。事前に17首の短歌は全員に郵送され、各自5首いいと思った短歌を選ぶ。歌会の前に選んだ歌を書いた互選表を司会者に渡し、歌の講評を選んだ人を中心におこなうが、誰でも言いたいことがあれば発言できる。

 わたしが出した短歌は3首だが。そのうちの1首が自分以外の全員から選ばれ、6票を得た。本人以外の全員に選ばれるのはこの歌会ではじめてではないかと誰かが言った。

 今まで見たいくつかの映像があるときピタッと重なり生まれたような短歌だ。どこかの短歌大会に応募するかもしれないので、ブログでは紹介しないことに。

 

そのほかの2首は

赤色の二本の小さな蛍光灯つののごとひかる坂上の交番

 

わが見る友とその写し絵あまりにも違い過ぎたりこの現実よ

 

 歌会の友が、わたしが明治神宮の献詠歌として詠んだ短歌を評して、この歌い方ではより深い人間性の追求はできないのではないかと言った。確かに、あるバランスのなかで短歌を詠もうとして、その枠というか殻を突き破る力が足りないような気がする。

 これはわたしの個性なのか、それとも突き破るべき殻なのか。