初夏の暑さ、蒲田の歌会へ行く

 長袖の洋服が着たくなる日が続いたが今日は半袖でもOKの日だった。

 雲が多めだが晴れて、気温が上がった。陽ざしがたっぷりで、種まきをして発芽したポット鉢を陽の当るところに移動した。発芽してからずっと曇りか雨だったので、種子から生まれた小さな芽たちにとってはじめての陽ざしである。

 午後から東急多摩川線蒲田駅近くで歌会が開かれる。バスで最寄り駅に出て、電車で向かった。

 今日は月謝を支払う日で二か月分を支払った。

 歌会に出席した人は14名、短歌を提出した人は17名、指導する先生が1名。

 詠った本人が自分の歌を読み上げ、プリントされたその歌のひとつ前の人が講評する。

 わたしの短歌は17首のいちばん先頭にプリントされているので、まずわたしが自分の歌を読み、17番目の人が講評をした。

 まあまあの評判の歌となった。表現的にこうしたほうがいいという先生の提案があったが、わたしの詠い方でもいいとも言われた。歌の力を重んずるか、歌のひろがりを重んずるか、その選択のようだ。景色としての歌か、わたしの心象風景としての歌か、という選択でもある。

 17首の短歌をまったく休みなして3時間近く、感想を述べたり講評したり・・・・・・。かなり疲れる。わたしだけかと思っていたが隣に座った人も、歌会のあとはぐたっとする、と言ったので同じだと少し安心した。

 歌会が終わり、別の歌会にも参加している仲間と駅前に向かった。さっきの歌会に最近参加するようになり、今回が2回めのひとと一緒になり、駅まで話した。とても元気な人で、意欲的な短歌を詠っている。詩や短歌について話した。

 その人を駅ビルのなかで別れ、仲間と駅前の喫茶店に入った。ここでも話すことは短歌について、である。わたしの短歌をほめてくれるのはうれしいが、それだけでは物足りない。厳しい指摘がときには必要である。身近にそういう人はいまのところいないが、岡山市に住んでいる歌友は的確で厳しめの指摘をしてくれる。ひとりでもそういう人がいるとわたしはぴしっとする。

 

一日をたたむがごとく夕空の茜がうすれ街暗みゆく

 

センサーが働き灯る街灯を何かの合図と思ひて歩く

 

帰り道に沿うあちこちでセンサーが動きつぎつぎ灯りがともる

 

歌会を終えての家路 見上げれば久しぶりなる夕焼けの空