午前中、陽ざしが差すが夜は大雨

陽ざしが出たので、植木鉢を日の当たるところに移動した。

 昼を過ぎても雲が多いながら青空がのぞいていた。

 こんな天気が夕方には雨が降りそうな空模様に。梅雨なので空に水分を含んでボアボアに膨らんだ雲が多く、天気が変わりやすい。

 空気は湿気をたくさん含んで、肌にじっとりまとわりつくようだ。

 昨日の国会図書館に足を運んだことで、疲れが残ってしまい、今日は昨日コピーしてきた資料を読んだ。

 いまのところいちばん印象に残った、永井陽子という歌人に対する解説は雑誌「短歌」(2003年8月号)に掲載の中津律子さんによる「歌という楽器」である。

 「短歌」では「特集・永井陽子の歌世界」という特集を組み、6人の筆者がそれぞれのテーマで永井陽子を解いている。「歌という楽器」はそのひとつで、わたしがなぜ永井陽子はあれほど短歌から私性を除くことにこだわったかの一つの答えが述べられている。ここで述べられていることは限りなく正解に近いのではないだろうか。

 もう一度読み直してさらに理解を深めたい。

 わたし自身もつたないながら短歌を詠んでいて、これでいいのだろうかという問いがいつもある。あまりにも日常をそのまま詠う短歌が多いような木がして、それはそれでいいのだけれど、わたし自身は違う世界をめざしたいと。

 ではどんな世界を、と言われると明快な像を結ぶことができない。だから、永井陽子さんの歌を詠み、その歌人としての人生、何を求めていたのかを探ろうとしている。

 ここに答えがあるかどうかはわからないが、何かが見つかるような予感がある。

 こんなあいまいなもので、たくさんの時間を費やしていいのだろうかという問いにはそれでいいと答えよう。最初からはっきりとしているものなどこの世にはない。動くことで考えることで知ることで見えてくるのがあると信じたい。

 もし何も見つからなくても探す過程を楽しんだという素敵な宝物を得ることができる。

 

 昼食後、廊下に敷いてある布団で仮眠をとった。最初は眠るつもりはなく、横になっていろいろなことを考えるような考えないような、そんな状態だったがいつの間にか眠ってしまった。

 午前中、近所の友だちから電話があった。昨日、わたしからの電話があったという。電話していないけれど、と答えたが向こうの携帯電話に着信記録があるので、発信したのだろう。

 そういえば国会図書館に入館するとき、小さなビニール袋に必要な持ち物を入れる規則だがその中に入れたスマホが他のものに押されて、偶然友だちに発信してしまったということが考えられる。

 同じことが前にも一度あり、その時も先方からの電話でわたしのスマホがわたしが気づかないうちに発信していたことがわかった。

 友だちは変な電話がかかってきて心配してくれたようだ。これからはもっと気を付けよう。

 夜は大雨になった。家の中から雨音を聞いていると皮膚が引っかかれるような感じがする。雨音ってこんな音だっただろうか。

 

乾かされし薔薇の花びら太陽の薫る粒子をふくみやはらか

 

アンネ・フランク花びらにかほり残しやはらかし永遠に咲けよと器に盛る

 

わが犬がをりし五月に咲きし薔薇うすあかね色の花びら重ね