珍しく客が訪れる

早朝、雨の音に目が覚めた。4時過ぎくらいだと思う。

また眠りにつき次は7時半ごろ目が覚めた。

 午前中、歌会の仲間から電話があった。歌会を指導くださっている先生はコロナウィルスの感染拡大が始まるずっと前から体調を崩され、歌会には出席されなかった。わたしたちが詠んだ歌の評価や添削を通じて、短歌の指導を続けてきた。

 だがその指導もそろそろ限界ではないだろうかと仲間が話し、歌会の仲間との新たなかたちを模索した方がいいのではないかとわたしに提案した。たぶん、他の仲間たちにも同じ話をしているように感じた。

 それぞれが自分の歌を個別に先生に添削を頼みながら、ときどき、歌会の仲間として話す機会や場を持つのはどうだろうかという提案だ。歌会を開き、短歌を提出した人たちが参加して、お互いの歌を批評しあうというかたちをやめ、近況や世間話に興じる機会を設け、交流をしていくわけだ。

 短歌という核がなくなって、親交を重ねることがわたしにはぴんとこなかった。もちろん、短歌をきっかけに出会ったわたしたちだから短歌の話はするとは思うが、歌会とは違うレベルであり、ただ会って話すだけでは長続きしないだろう。

 とはいっても歌会の先生はもう続けらない状態のようにも思う。どうしたらいいのか、歌会の仲間と会って話す場を持ちたいがコロナウィルスに阻まれている。

 午後は珍しく客が訪れた。このご時世に家の中にあがってもらうのはためらうところもあったが、久しぶりなので居間に招き入れ、しばらく話した。お互いのマスクをして、お茶を飲む時だけ外し、座る位置も対面にならないようにした。

 コロナウィルスは生活のしかたを変えてしまう。たぶん、感染拡大のピークを過ぎ、沈静化してきても前と同じようにはならないだろう。マスクや手洗いなどの感染防止は長らく続くだろう。信頼できる治療薬、ワクチンが開発され、世界的に流通すれば前と同じレベルに戻るだろうが。

 短歌を詠む時間を作りたいと思いつつ、身辺がざわつくというか・・・・・・。2020年の5月は一度しかない。季節の移ろいに胸をときめかせたい。出会うものすべてを歌にしたい。 

 夕方近くになり、わが家の近くの川に軽鴨ルパンが泳いでいた。幼児と父親が川の流れ近くに降りて遊んでいる。幼児は軽鴨を追いかけようとする。父親は楽し気な子を見て満足げだ。すると父親が何かをルパンに向けた投げた。ルパンが驚いて飛び立った。

なんて父親だ!わたしは怒り心頭。生き物を驚かせて喜んでいる父親の最低人間ぶりに、コロナウィルスはもしかしたらわがもの顔で生きている人類への警鐘ではないかとふと感じた。

 

新緑の菩提寺の庭あぢさゐの色づきそむる一鉢置かれつ

 

街川に立夏近づけば川べりの半夏生が葉をひろげたり