秋風立つ、老犬ももこの命日

日中は蝉の声が聞こえるが、庭をふき渡る風は秋のもので、夏が過ぎてゆく寂しさを感じた。

 今日、8月26日はもとは保護犬だった老犬ももこの3回目の命日。三年前もこんなに風が涼しかったのだろうか。

 風のことは記憶にないが、ももこのトイレのため早朝起きたとき、盛夏と違って薄暗くなり、日が短くなるのをひしひしと感じたのはおぼえている。晩夏を迎え、日が短くなり、朝夕が涼しく感じられるころの寂しさは3年前も今日も同じだ。

 だがあの日はももこがこの家で午後3時少し前に息を引き取った。呼吸が止まった後

心臓の鼓動が数秒だけ抱きよせたわたしの手のひらに強く感じられたのを覚えている。あの時、すぐにはももこの死がのみこめず、一瞬、その鼓動がそのまま続くような気持ちになった。息が止まったがまた息を吹き返すというように思いたかったのだろうか。

 手のひらの鼓動はすぐ止まり、その時ももこの死は動かしようがないものになった。ほんの数秒のあいだに、わたしのこころは期待と絶望の間を大きく振れた。

 あのときから、ももこはずっといないわけだが、こころのなかではずっといる。この不思議を毎日生活している。「いない」と「いる」の、自分をだましながらの均衡。

 どこかでこの均衡が破れそうな気になることがあるが、かろうじて保っている。

 多分、突き詰めて考えないからだろう。

 

 ホームセンターに買い物に行きたかったが、ももこの命日にでかける気にはなれず、家にいた。二匹のわが犬、ももこやレオと眠った自室に掃除機をかけてきれいにした。

 庭ではミンミン蝉が、つくつく法師が鳴いている。つくつく法師の声を聞きながら、明治神宮歌会で「天」の賞(最高の賞)をとられた短歌の意味がさらによくわかったような気がした。

 蝉のむくろがあちこちに目立つ夏の終わりに、今生きている蝉たちが弔いの念仏を唱えるように鳴いているという歌だが、夏の最後のほうで鳴くつくつく法師のことを詠っているのだと実感できた。先生が「寒蝉」と言われたが、つくつく法師は寒蝉とも呼ばれるようだ。

 ネットで調べると、実際はつくつく法師の成虫(蝉)は7月頃から鳴いているのだが、他の蝉の声にかき消され目立たず、他の蝉がだんだん少なくなる晩夏から初秋にその鳴き声が目立つようになる。

 そういえば、いつの夏だったか、夏の早い時期につくつく法師の亡き骸を庭で見つけたことがあった。

 

ささやかな供華を手向ける亡き犬の忌日 寒蝉の声を念仏に

 

 ささやかなる供華手向けたる犬の忌日 寒蝉の声念仏として

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ももこの遺影に花を手向けた、庭から切った百日草、千日紅、グラジオラス、その他

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