亡くなった愛犬を想う日曜日

 昨日はいろいろな所に出かけ、疲れ切っていたのだろう。亡くなった老犬ももこを悲しむ気持ちがやわらいで少し楽になったと感じていた。
 ところがその反動なのだろうか、今日はももこを思う気持ちが強くなり、寂しくて寂しくてたまらない。
 朝は4時半ごろ目が覚めたが外はまだ暗い。ももこは5月初めに食べたものを全部吐き戻し、腎不全の悪化で点滴を受けるなどの闘病生活に入ったのだがあの日から夏至までは日が長くなるだけであった。夏至が過ぎ、少しづつ日が短くなり始めたがそれでも8月初め頃まではまだ日が短くなることをさほど実感しなかった。立秋を過ぎた頃からか、早朝庭に出るといつもより暗く感じ、虫の音も聞こえるようになった。
 ももこの衰えが激しくなるにつれてどんどん日が短くなり、気がつけば秋の気配が忍び寄っていた。ももこが息を引き取ったのはそんな8月の末である。
 ももこがいなくなり10日たち、夏至の頃に比べ早朝の暗さは顕著になり、寂しさが胸に迫ってくる。これから日が加速度的に短くなり、ももこがこの世にいた季節が遠ざかっていく。ももこが闘病生活をしていた頃は蝉しぐれがうるさいほどで、往診に来た獣医師もそのことを口に出した。あの蝉しぐれの中、ももこは命の炎を少しづつ消していったのである。庭には蝉の幼虫が開けた穴がぼこぼこ目立ち、孵化した白い蝉が庭のあちこちで見かけられた。蝉のむくろも同じくらい見かけた。生命の誕生と死が目まぐるしく交差する蝉の季節をももこは精いっぱい生きた。衰えゆく命を何とか燃やそうとしていた。
 日が短くなり、ももこが遠くなるような感じが強くなり泣いたがそれよりも辛いのは気落ちして力がまったく出ないこと。なんか生きていることが辛くなった。生きてはいるがこころは空虚。ももこがそばにていくれることがどんなにわたしにとって大切ことだったかを思い知った。

人なのに人より犬愛すわがこころ老犬のやさしさ身に沁みき
川の字に2本足りなくなりたり愛犬いないこの世の暮らし

早朝の散歩以外は日中はずっと家にこもっていた。エアコンをつけてからは障子を閉め切り庭も見ていなかった。日が暮れて庭に面した広縁に立つと、蝉の声が聞こえてくるではないか。夏はまだそこにいる。秋の気配も漂うが、夏と秋はしばらく押し合い圧し合いするのだ。
 蝉の声がももこがいた時を鮮やかに思い出させて胸をぐっと掴まれた感じがした。