昨日の歌会の疲れをやや引きずって一日を過ごした。
いつか武蔵小杉の歌会を卒業する時が来るのだろうとそんな予感もある。
ブログの「こよみモード」を開いて、そうだ、今日は柴犬レオの誕生日なんだと思った。
庭に出て、いま咲いている花を剪定鋏で切ってきて、さらに水をためた洗面器で水切りをした。父母の墓参りのために乙女椿を切り、こちらも水切りした。
庭から切った花はどれも茎が短めなので、小さな丸い剣山を使って白い陶器の器に活けた。
こんなに花がいっぱいの庭だよ。レオがいなくなってもう6年近くが経つんだね。
柿の木があるところを眺めると、レオが回りながら歩いている姿が今でもまぶたに浮かぶ。からだを傾けて大きめに回りながら歩くレオ。さぞかし不自由だったのではないか。真っすぐ歩けないもどかしさを感じていたにちがいない。
駐車場でレオを自由に歩かせ、わたしが2メートルほど離れたところで,「おいで。レオ」と声をかけると回りながらでもなんとかわたしのほうに来ようとした。あのときのレオの気持ちはどんなだっただろう。呼ばれてうれしかったのか。近づきたいけれど近づくのが大変なもどかしさだったのか。
レオはわたしを信頼してくれて、いろいろ思いや辛さ、苦しさをストレートにわたしに伝えてくれた。わたしは受け止めるのにせいいっぱいだった。
もっとレオに語りかける時間を持ちたかった。わたしの生活のなんでもないことでもレオに話してあげればよかった。
晩年はレオが眠っている時にでかけることが多く、これから買い物に行くよなんて話かけることはあまりなかったような気もする。
レオには誕生日があるけれど、老犬ももこの誕生日はわからない。ももこが少し可哀そうな気がする。
午後遅めの時間にちょうどトイレに入っている時電話があり、とれなかった。誰からの電話かなんとなくわかったのでコールバックするとやはりそうだった。
石けんを送った友だちで、お母さまの介護の合間を縫っての電話だった。
目を離すとひとりでトイレに行きたがり、転ぶことが多くなったという。夜中など友だちが見守れないときに数回転んだようだ。朝、歩き方がおかしいので気がついたという。
友だちも歯が痛くなったり、血尿が出たり、介護疲れや心労がさまざまな体調不良になって表れている。
電話の途中、お母さまがトイレに行きそうなので気になると言い、電話を切った。
共倒れにならないうちに施設を探して預けるようにしたいと声に切迫感がある。
時々こちらから電話をして、都合が良ければ少し話せれば、友だちもいろいろ話して気持ちが多少は落ち着くかもしれない。ただ、介護は相手の状態が悪くなってくるとだんだん時間のよゆうがなくなるのでそれが心配だ。
朝食に卵サンドを作った。卓上に置いたサンドイッチを老犬ももこが食べようとくわえて床に落としたことがあった。
あの時は怒ってサンドイッチを取り上げたのだが、今なら丸ごと食べてもいいよという気持ちを詠んだ。
犬もしも生きをらば卓のサンドイッチ盗み食ふ見ても取り上げざるに