7月朔日は暑い日曜日

 


 今日から7月。例年だとまだ梅雨の最中なのに、今日も朝から夏空がひろがり、昨日とは違うかたちの雲が空を流れている。
 一年ごとに季節の移り変わり方が違ってくるような気がして、昔が妙になつかしくなった。このブログは2011年の10月からはじめ、他にも2006年の年頭から書いている4年日記がある。一冊に4年分の日記が書けるようになっている。
 これらの6月30日をすべて読み返し、まだ梅雨が7月に入ってからも続いていた頃の生活のひとコマを振り返ってみた。父母と柴犬レオがいる頃、父と柴犬レオがいる頃、柴犬レオがいる頃、わたしひとりだけの頃、老犬ももこがいた頃・・・・・・・。わたしはこんなふうに生活していたのだなとなつかしさと哀しさが交じりあった気持ちになった。
 これからどれほどの長さ、この生活が続くかはわからない。これからも父母や犬たちと暮していた記憶はわたしを支えるだろう。
 暑いことは暑いが外は風があり、日陰はけっこう過ごしやすい。エアコンのきいた部屋にいるより、外で過ごすことのほうがわたしは好きだ。
 裏庭が日陰になったお昼前に花が終わった額紫陽花を剪定した。柿の木が枝を伸ばして陽のあたりが悪くなり、年々花つきが悪くなる。いちばんよく咲いたのは柴犬レオの晩年だ。庭の樹々の年ごとの様子が違うのもどこか物悲しい。
 デジカメのメモリーカードがこわれたので、違うメモリーカードに取り換えた。新しいメモリーカードを入れ撮った画像をパソコンに取り込むときに、またそのままにしてある老犬ももこがいた頃撮った画像を開けて見た。2016年の5〜6月のファイルと、7〜8月のファイル。7〜8月のももこは痛々しすぎて正視できなかった。衰えて辛そうな顔つき、ぐったりとただ生きながらえている。死ぬまでは生きているしかないももこ。涙があふれて席を立ち、泣き止むまで時間がかかった。
 気を取り直して5〜6月のファイルを開けて見た。横たわっている写真ばかり。立っている写真、歩いている写真は一枚もない。ただ、横たわっていても顔を上げている写真があり、元気な頃の面影があり、胸をつかれた。まだ顔を上げて見たいものを見ようという気持ち、気力があったのだ。
 だが病気が治ることはなく、さらに衰え死ぬしかなかったももこを思い、愛おしさがこみあげた。

色づきし桃の実しばらく見ぬうちに消え失せたるを今朝気づきたり

樹の下に齧り跡ある桃あまた鳥たちが食い散らしたるを知る


朝8時半ごろから梅を干した
今日で2日目


写真の上が固めの梅干し
下のほうはやわらかい
上と下では梅の種類が違って、上の梅は実が早く熟す