今日も雨、家にいた

 朝起きてカーテンを開けると雨音がかすかにして、がくっとした。庭の植込みが雨のしずくで重たげなのを憂鬱な目で見た。
 毎日カンカン照りで暑い日が続くとうんざりして雨の日を恋うが、あまり雨が続くと陽射しを恋う。
 今テレビで日照不測による農作物への悪影響を報じている。実りが小さな時点で死んでしまうキュウリ、トマトはヘタのところが腐ってゆく。人にも農作物にも山や庭の木々、大きく言うと自然にほどよい陽射しと雨をお恵みください。
 昨日に続き今日も行きたいところがあったがなんとなくやめてしまった。今日は家にいようと心のどこかで思ったから。
 読み続けてきた「幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌」を読み終えた。戦後短歌ということばがタイトルに入っている意味が本を終わってよくわかった。わたしが短歌をはじめたのはまず柴犬レオとの暮らしを続けるなかで、そのときどきの思いをらしき形にすることから始め、レオが他界してから明治神宮歌会に通うようになり、もう少し短歌との関わりを深めた。といっても深めるということばは正確でなく、ぼちぼちと詠んできた。何人もの歌人の歌集を読んできた。深めるということばは老犬ももこが他界してから短歌との関わりには使えるかもしれない。いや、そこまでは言えないかな。
 自分がどういう気持ちで短歌を詠んでいるのか。どれほど本気なのか、正直自分でもわからないところがある。本気になれるのは愛する犬だけにしたい気持ちもある。
 そういうわたしでもこの本は戦後の短歌がどのような表現の可能を模索したかをわかりやすく示した。葛原妙子と、塚本邦雄に代表される前衛短歌は相似形、または近い立場という見方があるそうだがこの本ではまったく違うことを論じている。わたしもそうではないかとこの本を読んで思った。
 葛原妙子の短歌を読みたくなり、さっそく図書館に予約を入れた。読んでみてどんなことを感じるのか。楽しみ。

 柴犬レオも老犬ももこも実際にはこの家にいないのだが、わたしのなかではただの死んだ犬ではなく、こころのどこかでまだいっしょに暮らしている。近しい友だちのような相棒のようなところがある。朝のあいさつをして、でかけるときは声をかけて、家にいるときもときどき声をかけて、夜はいっしょに寝室に移動してお休みなさいと言って。


 マゼンタの朝顔はわが犬をりし夏のかたみにて深く透きて咲く

 雨粒に縫い閉ざされる家のなか狩りに出られぬ狼となる

 蝉の声の陽射しなければ寂しげに約束のなきひと日をひびく

 陽がたらず小ぶりの花を咲かせたる朝顔ふたつ寂しき顔

 まだ青き柿の実落ちて八月の冷たき雨に打たれていたり

 白かびにおほわる柿の実熟すこと断念したる末の姿なり