またひとりの大晦日

 朝の冷え込みは厳しかった。風はないが空気が冷たい。陽射しがあたると暖かさに包まれほっとする。ほんとうにお日さまありがとうと言いたいくらい。
 思い返せばこの9年は数年ごとに同居の家族が減っていく大晦日を迎えてきたなと今朝つくづく思った。2008年は母がいなくなった大晦日、2011年は父がいなくなった大晦日で、2013年は柴犬レオがいなくなった大晦日。2014年はひとりの大晦日で、2015年は老犬ももこがいて、今年はそのももこがいなくなり、また一人に戻った。父もレオも、ももこも高齢で介護と看護しながらの生活だったので、自分自身を顧みてよくここまでやってきたなと思った。
 疲労というより疲労を超えた何か・・・・・。何だろう。空しさということばでもないし、ことばにできないなにかがいつのまにかわたしの上に覆いかぶさっているような気もする。気持ちを切り替えれば何とかなるものでもなさそうだ。見て見ぬ振りをして行けるところまで行くしかないだろう。
 いつものように老犬ももこの友だち犬とその飼い主さんと今年最後の散歩をした。ももこがいてくれればほんとうに言うことなしなのだが。いちばん大切なものがいつも欠けているわたしの人生なのかも・・・・・・。いやいちばん大切なものは自分かな。わたしが生きていなければわたしにとってすべてはないわけだし。わたしがいなくなった後も同じように時間は流れ、何も変わらずこの世は動き、人々は生活するのだがわたしにはいっさいが何の関係もなくなる。やはり、生きている自分がこの世でいちばん大切なものかもしれない。その自分のために生きていくしかない。レオ、ももこ、わたしを助けて。
 10枚あまり残っていた年賀状を午前中に書き終えた。ここ何十年か、実は年賀状を書かないですませたらどんなにいいだろうと思い続けtた。それでも書いてきた。書きたくても書けないときが来るかもしれない。書けなくなってせいせいしたと思うかもしれない。書けない悲しみ,書かなくてもいい解放感、そのどちらもわたしは感じるだろう。
 ももこの死がわたしを揺さぶっている。わたし自身年をとってきたこともある。自分の気持ちに嘘をついて生きていくには年を取り過ぎた。

 今年一年このブログを訪れてくださった方々、ひとりごとのようなとりとめもないブログを見ていただきありがとうございました。
 どなたかの目に触れているということがいつも支えになったことは確かです。
 いつまで続けられるかわかりませんが行けるところまで行ってみたいと思います。
 みなさまおひとりおひとりにとって来年が良い年となりますように


 名前は知らねどつぼみあまたつける裸樹ありぬ未来を持つ樹

 一本の木にひと花づつ乙女椿わたしはここよと咲きはじめたり

 松に欅ヒマラヤ杉背の高い樹が目に飛びこめり大晦日

 街川に大小の鯉泳ぎたりそれぞれの影水底にうつし

 小さな鯉は小さな影大きな鯉は大きな影そわせて泳ぐ

 鯉動けば水動き影動きおり光と影が動きやまず

今年も沈丁花がびっしりとつぼみをつけている
変わらないことが変わったことを思わせて哀しみを誘う