夕方は小一時間の散歩

 曇りで気温が上がらず過ごしやすい。エアコンも扇風機も使はなかった。窓を開けていると入ってくる風がひんやりとしたので閉めた。
 午前も午後もずっと家にいて、図書館から借りてきた大口玲子さんの歌集を読んだり、柴犬レオがいる頃に書いたメモ書きのノートを拾い読みした。
 メモ書きのノートにはいろいろなことが書き込まれていていておもしろい。作ったお菓子のレシピ、料理のレシピ、暑中見舞いや年賀状をを出した人のリスト、レオのころ、短歌にしたいが短歌にならないことばの羅列・・・・・・・。柴犬レオがいる頃は歌会に行くなどして短歌を始める前だったので、俳句と短歌のようなものがメモ書き的にときどき記されている。そのメモ書きが伝えたいことは今読んでもわかるが短歌にしたいなら俳句にしたいなら、もうちょっとなんとかしないと思えるものが多い。短歌として成り立っているものもわずかだがあるが。
 そのメモ書き(当時は短歌を詠んでいるつもりで書いたのだと思うが)を手直していくつかの歌にしてみた。あの時のわたしより今のわたしのほうが少しだけ短歌を詠むこつみたいなものを身につけている。これがいいことがわるいことかはわからないが。あと何年かしたら、こんなのを短歌と思って詠っていたの?というふうになっているかもしれないし、かえってあのときのわたしのほうがよかったと思うかもしれない。
 夕方になり、雨が降りそうな空模様ではあるが散歩に出た。川をさかのぼり、川を下るコースだ。どちらの川沿いも二匹の愛犬、柴犬レオと老犬ももこと歩いた。ふたりを思い出しつつ、ちょっとした悩みのことを考えつつ歩いた。
 帰りに歩いた川、多摩川の河原はレオと歩いたときより大きく変わった。よく歩いた川の流れ近くの道は今は草におおわれ、獣道のようになっていた。わたしも変わったかもしれない。レオと散歩していたときは今より若いせいか万事につけて無防備だった。レオと中洲の背丈と同じくらいの草むらに入ることを何とも思わず、野生の動物的なところがあった。今話題になっているマダニに咬まれたことが何度もあるし、草むらに行くとマダニがスーッと寄ってくるのを見たこともある。いまはとてもそんなことはできない。人間関係にも無防備なところがあって、2回くらい大喧嘩をしたことがある。多分、レオを守りたいという気持ちが強かったからだと思う。いまのわたしは自分以外守りたいものがないのでそんなに闘うことはないと思うが、守りたいものができたら闘うだろう。
 ブログを書き終わり雨戸を閉める時雨が降っているのに気付いた。さきほどの散歩はとてもラッキーな時間だった。

 
 はじめて河原散歩その広さに幼き犬は目を見ひらけり

 雪の降る庭を眺めき愛犬と雪見障子のある部屋から

 老犬の残り少なき日に春が来ぬ白のクロッカスひとつ咲き初め

 春ほほへむ庭で花と見つめあひわが老犬の寿命を思ふ

 若かりし母が飾りしかんざしを手に取り眺めるひな祭り

 孫のため父母が飾りしひな人形 40年を納戸に眠る

ジャコメッティ展を詠んでみた

 フランスより海を渡り来て「歩く男」ほの暗き部屋を歩ひていたり

 外光のなかたたずみをリし女性立像ほの暗き部屋にぼうぜんと立つ

 見る人と見られる彫刻、絵画の数のバランスよくこころよし

 彫像とわたし見る人見られる人は時空をこえて東京の今

 目の前のモデルのまなざしとらへんと目元に集まる線描きの線

行きはこんな小さな川をさかのぼった


一昨日の朝の空