老犬ももこの2回目の月命日

 朝から雲ひとつない快晴で日中は気温が上がった。東京は今年最後の夏日とか。庭に出ると蚊が近づいてくる羽音がするので渦巻き式の蚊取り線香をたいて午後は庭仕事をした。
 午前中は近所のひとり暮しの高齢者の方に昨日作った里芋のグラタンを持って行ったら、ことのほか喜んでくれた。ゆがいた里芋をさらに牛乳で煮てすりつぶし、炒めたシメジとベーコンを間にはさんでグラタン皿に入れ、チーズをたっぷりのせて焦げ目がつくまでトースターで焼いた。塩胡椒で味付けするのを忘れたので、グラタン皿に盛った後上から塩と胡椒を振りかけチーズを多めにのせたらいい味に仕上がった。
 高齢者さんの家を出て、柴犬の老犬とその飼い主さんといつものコースを歩き別れた。柴犬さんは老犬ももこの友だちで、ももこの足の調子がいいときはいっしょに散歩した仲である。
 今日はももこの2回目の月命日。朝起きて何を思ったか、ももこの遺骨を柴犬レオの横に移動した。ももこのための場所は先日、そこに置いていたプリンターを移動させて開けてあった。寝室にしている和室の奥、床の間にオーディオボードを置いてあるがその上がレオとももこの仏壇になった。使わないオーディオが入っているので、いつか始末するか聞けるような状態にするか、どちらかにしようと思いつつ16年の歳月がたってしまった。その上でももこの写真がじっとこちらを見ている。写真を撮ったとき何を見ていたのか何を思っていたのか永遠にわからない。わからないから何度でも見たくなる、そんな写真を遺影に選び、遺骨のそばに置いた。
 ももこの写真を見ると今でもももこが死んだことが信じられない。夢ではないかと思うことがある。夢ではなく現実なのだがどこかに(意外とすぐ近くに)ももこがいるような気持ちはずっと続いている。半面ではももこがいないことを冷静に認めている。いちばんわたしが恐れるのはレオが死んだ後のような精神的に不安定な状態が長く続くことだ。こころの半分はふつうに生きていて、半分は死んだ人や死んだ犬と生きているような、二つの世界を行き来しているような状態が長く続いた。このことが心身を傷めたと思う。
 こころのバランスを保ちたい。死んだももこを心の中で感じ、そばにいるような気持ちになってもそのことにのめり込まず、できればたんたんと生きていきたい。


 午後からは庭に出て買っておいたラナンキュラスの球根を植木鉢に植え付けた。この花は柴犬レオがいた最後の早春から春にかけて鉢で咲いていた赤い花である。次の年もつぼみの状態のこの花の苗を買ってきて鉢に植え春先に咲いた。この花が咲いている時、ももこがわが家にやってきた。ももことの過ごした初めての早春はこの花がなかった。レオとの思い出の花なので今年はやめておこうと思ったから。ももこが死んでしまった今となってラナンキュラスの赤い花をまた見たくなったので、こんどは球根を買ったのである。初めて植える球根なので来春花が咲くかどうか不安だが、きれいな花が咲いたらこころをいやしてくれるだろう。
 ラナンキュラスの球根は乾燥した状態から急に水分を与えると腐ることもあるそうで、植え付けてから1週間後に水やりをするように書かれている。
 もうひとつ、5月頃掘り起こしたムスカリの球根を長方形のプランターに植え付けた。球根だけ植えたので土をかぶせると寂しいがムスカリは数日たてば小さな緑色の芽が顔を出すから大丈夫。
 さらに土だけが入った何も植えていないプランターを引っくり返してきれいにした。中の土は新聞紙を敷いた上に出して、日光に当てて乾かすことにした。プランターは底に水受けが付いたタイプで、細かい網状になった上に土を入れ、水が下に流れ落ちてたまるようになっている。網状の細かい穴や排水用の大きめの穴が土で詰まっていたので土を取り除き、水で流した。このプランターに5月頃、菊のさし芽をしたのだが根がついたと思ったらそれ以上大きくならず枯れてしまった。土そのものが固く締まり、さらに排水がうまくいかなくて根を伸ばすことができなかったようだ。

5月に種蒔きをして10月に花盛りを迎えた千日紅
ももこがいた8月下旬には小さな赤いつぼみが緑色の葉っぱの間からのぞいていた
千日紅がそろそろ咲き始めると思ったころ、ももこが逝った