秋の陽が心にしみる

 朝から晴れて暑からず寒からず過ごしやすい一日となった。
 昨日は今日より気温が上がったがお昼前に家を出て、明治神宮参集殿で開かれる明治神宮献詠大会に足を運んだ。短歌を一首応募して特選、入選、佳作に選ばれた人は明治神宮神前で献詠披講式に参加するのだがわたしは選にもれたので一般の人が参加する献詠大会にだけ参加した。岡野弘彦さんや岡井隆さん、馬場あき子さん、森山晴美さんなど著名な歌人が壇上の左右に座られ、身が引き締まる思いがしたといっては嘘になるがそれに近い気持ちになった。
 岡野弘彦さんの開会の辞はこの方でなければ語れない内容でこの席にいることを幸運と思い傾聴した。今日でかけたいちばんの目的は歌人前登志夫について語られる連続短歌講座を聞くことだったが、講師の方の声が大きくなったり小さくなったりして聞き取りにくいところがあった。マイクの使い方があまりうまくなかったようだ。選ばれた作品についての講評は4人の歌人の方が行ったが、講評の仕方に先生たちの持ち味が出ておられてとても興味深く聞くことができた。
 今日は昨日外出したので家で過ごすことにした。
 午前中は武蔵小杉で開かれる短歌会のために短歌2首をファックスで送った。送り先の知人に別の短歌会に入会してみないかと言われたが、年会費もかかるし、年に4回8首の短歌を送らなければならず、考えてみると返事した。短歌はいくらでも作れるといえばそうなのだが、自分が詠いたいことを詠わなければ自分にとって意味がない。継続的にどれほどの短歌が詠めるか、ちょっとわからない。でも自分の歌をどこかに応募したい気持ちはある。
 明後日で老犬ももこが死んで二か月目になる。ももことわたしが夜眠った和室の、ちょうどももこが眠っていたあたりに現在遺骨を置いてあるがこの場所は寒くなりストーブを使うようになると置けなくなる。その前にももこのお骨を柴犬レオの横に移動させたいのだが、それだけのことがなかなかできない。自分でも変だと思うのだが、死んだももこがレオのそばでやすらげるだろうかなどと、考えても仕方ないことを考えてしまう。ももこもレオもわたしにとっては大切な掛け替えのない家族だった。レオは父母のいる時から長い間家族の一員でいてくれて、どんなにかわたしや父の支えになってくれただろうか。レオがいなかったら母亡き後の父の介護をわたしはやり遂げることができただろうか。ももこは1年5ヶ月余とあまりにも短いが、レオとの死に別れで家族をすべて失い精神的に不安定になり身体の不調を抱えていたわたしのそばでどんなにかいやしてくれ元気をくれたことだろうか。ももこのやさしい心根とやさしい目の思い出がわたしを涙させる。
 レオとももこの遺骨をわたしの寝室に2つ並べるか、ももこの遺骨は居間に置くか。夜になってももこが寂しがるかもしれないのでやはり寝室かな。死んでしまった今となってはどうでもいいと思えることに悩むわたしである。


 部屋の奥ふかく秋の陽さしこむに陽だまりのなか眠る犬見えず

 庭に出て柚子の木などを切ってみる部屋のなかに愛犬眠りおらず

 秋の陽は生きものめいて部屋深くひかりをはわせふいに陰りたり

桜木の細い枝さき来春の花を秘めもちて夕空にあり


ももこが最後を迎えたのは居間に置いたベッドの上だが、
そこに敷物を敷いてももこの絵と写真を飾ってある
ときには口に出してももこに話かけながら一日を送る


鶏頭とトウガラシを植えた花壇
どちらも、ももこが死んでから植えたもので
時が過ぎたことを思う
鶏頭とトウガラシの間にある忘れな草
ももこがいた5月、この場所に他から移植したもので
見るたびに思い出す