友人の愛犬が10日前から食べなくなった

 午前中、近所の友人から携帯に電話があり、ちょうど固定電話で別の友人と話していた所なので出られなかった。こちらからかけ直すと友人の愛犬が10日前から食べ物をまったく食べなくなり水しか飲まなくなったとのこと。そろそろ寿命が近づいているので会いに来るよう誘われたので、昼食を急いですませ、友人宅に向かった。
 居間のソファの上に横たわっているわんこは顔がほそくなり、全体的に縮まったように見えた。眠っていなく、目を開けて何かをじっと見ている。飼い主さんの動きを見ているのかもしれないし、わたしが来たことを目で確認しているのかもしれない。
 いつもならわたしが部屋に入ると必ず吠えるわんこが静かになっているのを見るのはとても切ない。目つきがやさしくなっている。いろいろなことをがんばってきたが今は何もがんばることが無くなったというような目つき。命が少しづつ消えていくのを静かに待っているような眼。
 何回もわんこの名前を呼んだ。わたしの声がこの犬のどこかに届くことを願って、いや信じて。声を聞いているのか聞こえないのか、わんこの目は静かなままである。ほとんど反応がない。
 友だちが抱くとわんこの顔はいっそうおだやかになる。安心感が顔いっぱいにあらわれる。やはり、わんこにとっていつもそばにいてくれる大切な人は最後まで大切な人なのである。死を目前にしてもこういう顔になるわんこを愛しく思った。
 前足の付け根あたりに腫瘍ができ5年になるという。あえて手術はしなかったそうだが腫瘍が大きくなってもそれほどの痛みはないようだ。
 食べることも起き上がることも歩くこともできなくなったが意識はしっかりしている。何を思っているのだろう。友だちの腕の中で身体を動かしたので水が飲みたいのだろうかと思い、水を入れた器を顔の近くに持って行くと、顔を逸らして飲みたくないとの意思表示。これが生きているということ。こうして生きているわんこがあるときから何かをしたいとかこれは嫌だとか気持ちを表すことがなくなる。なんて寂しいのだろう。

 友だちに柴犬レオの最期について聞かれた。犬の葬儀についても聞かれた。まだ息のあるわんこの前で葬儀の話をしている。母が亡くなったときもまだ母が病院にいるときに父と葬儀の話をしたことを思い出した。父がこうしたいという葬儀とこちらが思い描いている葬儀が違い、喧嘩になってことも思い出した。

 今日の老犬ももこは後足の調子が悪く、後ろ足が開きやすく腰を落としていることが多い。家の前を行ったり来たりもしなかった。庭の通路か家の前の道路で用を足して、ほとんどすぐ家に戻った。