迎え火

 昨夜半は激しい雨が降った。疲れが出て早く寝ようと床についたが、老犬レオは興奮状態にあり、部屋の中を歩き回っていた。眠ろうとすると、レオが部屋の隅に頭をつっこみ、変な声で泣くので目が覚め、助けたり、障子にぶつかる音に眠りを妨げられたり、結局、2時ころまで寝ているような起きているような状態だった。レオもすこしの間、横になっているのだが、また、がばっと起きて歩きだすのである。
 しかたなく、おしっこをしたいのかと思い、レインコートを着せたレオといっしょに外に出た。そのときは小雨だったが、なかなかおしっこをしないのでしばらくして、たたきつけるような雨に変わった。すぐ家に入ればいいのに、傘をさしたまま、わたしはレオと立ち尽くした。こわいみたいな雨だな、などと独り言をつぶやきながら。
 あの雨の中、ぼおーっと立っていたわたしはそうとうおかしかったなと今は思うが、あのときは激しい雨に金縛り状態(笑い)だった。はっと気付いて、あわててレオを抱き、家の中に入った。レインコートはびっしょり。、わたしもずぶ濡れ。わたしは着替え、レオはタオルで拭き取った。それからレオはすぐは眠らず、わたしも目が冴えてしまったが、いつのまにか眠った。

 朝起きたのは8時ころ。レオも思ったより早く起き(おしっこがたまっていた)、外に行って用を足した。見るからにふらつきがあり、まっすぐ立っているのが難しい。昨夜はけっこう元気で、いつもより散歩のときも歩いたのに・・・・。朝は調子が悪いことが多いが、いつもよりふらつきが強い感じがした。だが家の中には入りたがらず、裏庭を植木鉢を倒しながら、歩いている。植え木鉢の周りを寄りかかかるようにして歩くので、倒れてしまうのだ。わたしがそばにいると、足の周りを歩く。体を支えるものとし、足を使っているのだろうか。先日、剪定したアジサイの枝を束ねて括る作業があったので、ずっとレオのそばにはいられなかったが、頻繁に様子を見に行くと、わたしの姿を見て喜んでいるように思えた。

午前中、裏庭で休むレオ。歩こうとするがふらついてしまう。

一昨日に植えた宿根草のシャスター・デージー。ポット苗を買ったが、太い根がぎっしりと張っていた。



 今日は亡くなった人の霊が一年に一回、家に帰るといわれるお盆の始まりの日。父母を迎えるためにの盆棚は昨日、作ってあったが、今日は午後、レオが食後、眠りに着いてからお寺にお墓参りに行った。
 お盆の期間中、お坊さんがお線香の火をつけてくれ、お花も用意してある。ユリの花を2本持って行ったが色どりがほしいので、一束買ってあわせて供えた。
高齢の母親とその娘さんと思われる二人連れが墓参に来ていて、この時期、それぞれ、亡き人への思いを抱いた人たちの姿が印象に残る。

日が落ちてから迎え火をたくが、5年前、母の初盆のときは迎え火を日中の明るい時にたいた。近親者を呼んで、かんたんな昼食を用意したからだが、あの頃は暗くなってから迎え火をたくなどとは思っていなかった。送り火もそのときはまだ明るい3時ころにたいたのを覚えている。
 一昨年はお盆中に父が救急車で再入院したため、お盆どころではなくなり、勘違いして一日早く送り火をたき、仏様に早めに帰ってもらった。母はまだ一日あるのに・・・・と思ったかもしれない。
 お盆の迎え火、送り火について書いたエッセイが心に残っている。幸田文向田邦子、どちらかのエッセイだったと記憶している。迎え火はまだ明るさが残っている時間に燃やすが、仏様を送る送り火はすっかり暗くなってから燃やす。迎え火は早く家に帰ってきてほしいという思いの火で、送り火は別れを惜しみ、少しでも長く家にいてほしいという思いがこもった火である。その火の色の違いについても触れていたように覚えている。
迎え火はレオの散歩の前、まだ暗くならないときに燃やした。父母のことをレオよりも優先していると伝えたかったから。迎え火でろうそくを灯し、仏壇に持っていき、お線香に火をつけ、お焼香をした。


お花や季節の野菜、果物を盛ったかごをお供えした盆棚



迎え火、送り火は素焼きのほうろくで、おがらを燃やす