お彼岸の中日、家にこもって過ごす

 朝方は雲が多く風もひんやりしている。時間が進むにつれて陽ざしがでてきた。陽ざしを確認して、洗濯機を回した。

 午前中はパソコンに向かい、先週の半ばあたりから詠んだ短歌をワードで入力した。ラインのキープメモに記した短歌がかなりあった。

 3月も後半にさしかかり、時間が過ぎるのが速く感じる。春はそれでなくても速足で来て、速足で去っていくような気がする。

 今月中にやりたいことがいくつかあるので、体調を整えつつ気持ちを引き締めて、しっかりとやっていきたい。

 午後は歌人、永井陽子さんについてまとめたいくつかの文章に目を通した。これらを新しく立ち上げたブログに順次アップロードしていくつもりだ。月に最低でも1回、新しい文章を載せていくつもりなので、このブログの更新に比べるとかなり頻度が少なくなる。ゆっくりと長い旅をするつもりで新たなブログを書いていきたい。

 昼食後、たいして眠気は感じなかったが布団を干している廊下で、干している布団をそのまま使ってごろんと横になった。枕と掛布団を持ってきて。少し眠ったがあまり眠らず、思いをめぐらした。別に考えなければいけないことはないのだが。ただ、庭に2本あった(ほんとうは3本あった)桃の木が1本枯れてしまったことが思ったよりショックであることを感じた。

 老犬ももこがいた頃。2016年のことだ。ちょうど今ごろ(3月の半ば過ぎ)、桃の花が咲き、花が終わった後しばらくたち、青いまだ小さな桃の実をたくさん実らせた。その実を見ながら、これが大きくなって熟する頃までももこはこの家にいるのだろうか、と思ったことが思い出される。ももこが亡くなったのは8月26日なので、その前に熟した桃をとって食べることができたのだが、あの青い実を眺めた時の気持ちが今も残っている。

 父が17年ほど前に植え、花がたくさん咲くようになったのは父が亡くなる前年くらいからだった。それから春ごとに花を咲かせ、実をつけた。桃の枝にヒヨドリがよく止まっていたのが思い出される。わたしが眺めているときだけでなく、桃の木は17年間この庭に植えられて、晴れの日も雨の日も風の日も生きていた。朝日を浴び、夏の強い日差しに打たれ、夕暮れの光にほっとしたときもあっただろう。そんな日々の命を刻んできた桃の木が枯れてもうこの世で花を咲かせたり、若葉をひろげたりすることがないと思うのはとても寂しい。