水がめの新しい水にメダカを返した

 朝から曇天で雨が降りそうな空模様。 

 5時過ぎに目が覚め、いつもの日曜日と同じようにNHK短歌・俳句を見て、その間のテレビ体操もやった。

 午前中はまずワードの「2021年9月の短歌」にここ数日の短歌を入力した。自分の詠む短歌が変わりつつあるのを感じる。いかにも短歌、という詠み方からさらに離れていくような気がする。これでいいのだろうか。葛藤がある。

 何しろ、明治神宮の月次歌会に参加することで短歌を始めたので、本格的な短歌がめざす世界だったのである。最初は五七五七七にことばをまとめるだけでも大変!ぎくしゃくとことばがきしみあい、短歌の形にさえなれなかった。

 歌人岡野弘彦先生に誰か他の先生に短歌というものについて指導してもらったほうがいいと、先生が講師となった年に2回の月次歌会で何回か言われた。そう言われてもそのときは犬がいるなど時間のよゆうがなく、習うこともなかったが実作を重ねていくうちに短歌に近づいてきた。

 こんどは身につけつつあるその短歌らしさから離れようとしている。皮肉と言えば皮肉。すっかり離れるのはできないような気がする。詠い方の幅を広げる、実験作を試みる方向で行こうか、と思う。思い切り羽ばたきたい気はある。

 短歌の入力を終え、庭に出た。昨日、庭に置いてあるメダカの水がめの一つの水をかきだし、内側を洗った。新しい水を満たして一晩置いてある。そこにバケツの水に移動させたメダカを戻した。

 昨日、古い水をかきだした時、大人のメダカが6匹、小さめが1匹、ごくごく小さいのが1匹いた。そのうち、大人のメダカを一匹、移動するときわたしが傷つけてしまったようだ。濁った水なので小さな網ですくうのだが、最後に1匹が残っていたのを知らずに、水をかきだすときの器で傷をつけたにちがいない。数センチくらいしか残っていない水から最後の1匹を見つけたのだから。

 もちろん、なんども網を使ってもういないだろうと思って、水をかきだし、さらに途中数回網を使った。だがもっとていねいに諸々の作業をすすめればよかったと反省している。

 水を替えなければ元気でいられたメダカを殺してしまったこと、生きているものにはていねいに対することが必要なこと。命はもろいものであること、はかないものであること。

 最近、友だちにあることでゆさぶりをかけられて、気にしないようにしているが揺さぶられれば葉っぱの何枚かは落ちてしまう。わたしの心の内にも変化が起きるかどうか。自分のこころと向き合い、自分にとっていちばんいい方法を見つけるしかない。わたしのことを一番心配しているのは、父母が生きているときは父母だったが今は自分自身なのだ。

 愛している犬たち、そして父母に守ってもらって、自分のこころにうそをつかず、無理をせずに生きていきたい。