朝から久しぶりに晴れたが、雨の天気の名残か、雲がぼあぼあ浮かんでいる。
心にモヤモヤを抱えつつの朝だが、新しい一日をはじめよう。
朝のテレビでオオカミ犬が飼い主さんの家から脱出したが、捕まえることができたというニュースが流れた。
からだは大きいがやさしい性格のようで、大人の男たちに三方から引っ張られる様子を見てかわいそうになった。朝いちばんで涙が噴き出したほど。
人間だって動物だって、犬だってやられて嫌なことは変わらない。人間があんなふうに捕まえられて引っ張られたらどんな思いをするだろう。
人間たちよ(わたしもそうだ)、あのオオカミ犬に謝りなさい。わたしはあやまるよ。ごめんね、怖い思いをさせて。人間がオオカミ犬が逃げて怖いと思ったのは想像の産物だが、オオカミ犬が味わった恐怖は現実だ。
想像力の欠如はオオカミ犬だけに向けられているんではない。人にも他のすべてにも向けられているのだろう。家族とか身近な人には違うかもしれないが、そのほかの大ぜいに対しては想像力が欠けているのかもしれない。
わたしも反省したい。想像力の欠如がいちばん残酷であることをいまいちど心に刻みたい。だいぶ前に見た映画だが、ナチスドイツでユダヤ人への残虐な行為を繰り返したあるドイツ人が裁判にかけられとき、その残虐性は特殊な人間のものだという仮説で裁かれようとしたのだが本当はどの人間にもあるふつうのものだという結論があぶり出された。
それが極端な想像力の欠如だ。自分以外の人間、また自分が大切と思う家族、仲間、友人以外への人間への想像力の欠如は人間を極端に残酷にすることがある。
すべての人の内側にあるものだから、この世になくなることがない、人間の残酷性。
オオカミ犬の件も、犬が対象だからと軽く見てはいけない。犬は生きもののであり、生きているものへの残酷は許せない。
あのオオカミ犬さんにエールを送りたい。こんな世の中で人間の気持ちもどこか荒んでいるように思うが、あなたは飼い主さんのもとで元気で生きてね。与えられた命をできるだけ幸せにまっとうできることを祈っているよ。人間に怖い思いをしたけれど、いい人間もいるよ、きっと。あなたはやさしい性格みたいだから許してくれるかな。ごめんね。
オオカミ犬はエルザという愛らしい名前だ。エルザさん、あなたの幸せを祈っています。
東京は緊急事態宣言が延長になった。9月12日までだ。東京をふくめ13都道府県が緊急事態宣言下に入った。東京の感染者は増えるばかりでピークはまだ迎えていない。東京がピークを迎えた後、そのほかの道府県は短期間増え続け、少し遅れて全国的なピークを迎えるような気がする。
わたしは医療従事者の次の順番でワクチンが打てた世代であり、2回目は8月6日に終えているが、ワクチンを打ったからある程度自由に行動できるかというとそうでなく、何のためにワクチンを打ったのかという気持ちもある。安心感と言っても打っていない時より抑制的な生活をしているので、安心感という言葉の意味が実感的にわからない。
ただ、65歳以上が感染者全体に占める割合が少なくなり、重症化する人も減ったように感じるのはワクチンの効果だろう。ただ、行動の自由に結びつかない。
行動の自由に結びつかないのはわたしが悪いのだろう。欧米人をテレビで見る限り、ワクチン接種が進んだ後かなり行動の自由を取り戻しているから。自分で自分の心を縛っているのだろう。これは日本の社会の問題でもある。縛るような方向に社会の圧力は働いていると思う。
医療体制のよゆうのなさが感染の恐怖を増大させているような気もする。いざ感染しても自分でなんとかするしかない、みたいな。首相は国民の命を守ると繰り返し言うが、実際取り込んでいることや、発するメッセージは命を守ると矛盾している。
自分のこころと社会の圧力に対する闘い。そんなに無理に闘わなくても、少しづつ自分の心を開放していこう。社会の圧力からも自由になる方法を探っていこう。
陽が落ちて家に帰れば虫の音がわれを迎へる八月となりぬ
電車や踏切の音にまじりあひカナカナ鳴きをり夕の街角