桃のゼリーを作った

 一日中雨が降ったり止んだりの日曜日。午前中早めの時間に東京都議会議員選挙の投票に行った。

 投票所は今年から変わり、前よりわが家からは近くなった。1年半以上前には週に2回くらい足を運んでいた特別支援学校の講堂が新しい投票所だ。

 この学校の一角に小さなカフェがあり、授業の一環として先生の指導の下に生徒さんがカフェに必要な作業を行っていた。接客や飲み物を作ったり、清掃するなどだ。ここではおいしい入れたてのコーヒーが廉価に飲め、近所の知り合いや友だちと談笑が楽しめたので足しげく通っていた。

 そういう楽しい思い出のある場所だが、不思議なことにわたしのなかでここにコロナ禍により通えなくなったことをそれそれでよかったと思うようになった。なにごとにも区切りがあるような気がする。コロナウィルスという外的な要因でここのカフェに来れなくなったのだが、わたしのなかでは必然というか、そうなるべくしてなったという思いがある。そうなってほしかったという思いも心の奥底にある。

 ここに来れなくなったことで、わたしのなかで別の世界への広がりが生まれたような気がする。もちろん、この広がりをさらに進めながら、もしこのカフェが再開したらときどき来ることはできるだろう。だが新しく広がった世界はたぶん、このカフェに来れなくなったこともひとつのきっかけとしてわたしのなかに生まれたように思う。

 失うということはささやかなことでも、新しい何かにつながることがある。それをよかった思うか、そんな新しい何かなんていらない、失ったものが欲しいと思うかどうかは別としてだが。わたしは今回は一時的にしろ失ったことが良かったと思っている。

 いろいろなことを考えながら、投票を終えて家に帰ってきた。

 雨に濡れた桃の木にヒヨドリがやってきて、食べかけの桃の実をつっつこうと周りの枝のいちばん足場がいいところを飛んで移動しているが、どこも食べにくいようだ。ヒヨドリは大型の鳥なので細い枝には身を支えられない。

 仕方なく、まだ青い桃の実を啄んだが一回試みただけであきらめた。青くて固くて食べられないのだ。

 この桃の実は今から眺められるところになっている。この木は日当たりが良くなく、実が熟するのが遅く、青い実が一つだけ残っている。

 だが日当たりのよい花壇のそばに植えた桃の木はとっくのとうに、ヒヨドリにほぼ食べつくされた。赤くなってきたなと思ってからすぐ食べ始めたのだろう。どの桃も食べかけの状態になり、それでも5~6個の虫食いの桃を何とか収穫できた。

 その虫食いの実を傷んだところを取り除き、果肉を小さめに切って三温糖を入れた水で砂糖煮にした。シロップに漬けた桃のコンポートを粉寒天を使ってゼリーにした。寒天を煮溶かした湯に、シロップと砂糖を加え、少し覚まして果肉を入れて固めたのである。

 あまり期待していなかったが思ったよりおいしくできた。桃の香りもするし、桃の味もするし、つるんと冷たい甘みのほどよい寒天の舌触りのすばらしさ。

 ヒヨドリに桃の実の大かたを喰いつくされる前にとっておけばよかった。もっとたくさんコンポートを作れれば良かったのに、と思ったがヒヨドリの腹でこなれて彼らのエネルギーになったほうがやはりいいと思い直した。

 

f:id:leoleoleoya:20210704052621j:plain

桃のコンポートで作ったゼリー