ひとりごとのようにブログを綴ってみたくなった。
昨日の友との電話がまだ大きな余波をわたしのこころにもたらしている。
3~4時間ほど眠り、早朝目が覚めた。
準備してすぐ散歩にでかけた。
雨で濡れている街や道路、しっとりと涼しい空気にいやされる。
雨の名残りの雲が空に残り、青空ものぞいている。
大切なことを言わないで伏せたままでも、コミュニケーションはできるのだろうか。
現実的にはできる。だがコミュニケーションといえるのだろうか。
信頼関係とは何だろうか。大切なことを言わない信頼関係もあるのだろうか。
信頼ということばはフィクション、もろく崩れる砂の山ではないかとそんな疑問もある。フィクションとは当事者が勝手に作り上げた幻想という意味だ。
このふたつのことばが頭のなかに渦巻きを作ってぐるぐる巡っている。
いくら考えても結論の出ない問い。
眼を川の流れに向けると、一羽の軽鴨がいる。たぶん、ルパンだ。
岸辺の草むらに嘴を突っ込み、草を食べている。嘴を川底の落葉に向けて差し込み、お尻をこちらに見せてる。さかんに何度も顔を水の中に入れる。今日のルパンは快調だ。
数日前、翼の根元を盛んに嘴でつっついていたルパンを思い出す。よだれのようなもので羽毛がべとべとになっていた。虫でもついているのか?皮膚病か?と案じていた。
今日の元気なルパンはわたしを元気づけてくれた。
こうやって生きていこうと思えるようになった。
自分に必要なこと(寝たり食べたり呼吸したり、見たり話したり聞いたり)をして、自分にとって楽しいことをして。
軽鴨と同じようにシンプルに生きることができたらどんなにいいか。
ただ、人間は軽鴨よりやることが多いかもしれないが、基本は同じだ。生きている間は生きて、いつかは死ぬ。
水のなかに顔を入れてでんぐり返しのような姿勢でえさを食べるルパンの姿が目に焼き付いている。何度も試みて楽しそうでさえあった。
わたしも生きている間は生きていることそのものを楽しみたい。
信頼関係とは?コミュニケーションとは?というわたしのうちに芽生えた問いは生きている間、問い続けるつもりだ。結論は求めない、問うことそのものが重要だ。
生きている証のごとく水紋を川面に散らす朝の軽鴨
川底の落葉ついばまむと潜りたる軽鴨の尻のやさしき丸み