朝はいつもより遅く起床した。雲の多い空だが陽射しが出て、日中は気温が上がった。
午前中、ベニカナメの剪定の仕上げをした。昨日はほぼ終えたとブログに書いたが生垣の端のほうがまだ残っていてやってみると、切った枝の片付けまで入れて2時間ほどかかった。
あんなに密集していた枝を切り落とし、風が吹き抜けるすがすがしい生垣となった。自分の仕事の成果をほれぼれと眺めた。庭木の剪定は仕事の結果が目に見えるかたちになるので終えた後の爽快感がある。
草花の種を蒔いて育てるのは、蒔いた種から芽が出るか不安があるが無事に育って花が咲いた時の喜びが大きい。ただ爽快感と無縁である。どちらも違う楽しさがある。
未明に目が覚めてしまいそのため朝寝坊になったのだが、目が覚めている時間が長く、亡くなった母のことを考え無性に会いたくなった。いつからか音信不通になった友人のことも考えたが自分のなかで吹っ切れていることに気づいた。こちらが電話をしても電話を返してくれず、共通の知人を介して電話をくれるように伝えても連絡がなかった。
どうしてだろうと堂々巡りのように3年間考えていたが、未明に目が覚めた時、その友人のことを思い出しても今までのような感情が湧きおこらなかった。わたしのなかで何かが変わったのである。吹っ切れたということばがいちばん言い当てているように思える。
今日は無性に会いたくなった母の月命日で、母の日でもあるので、墓参りに行くことにした。
陽射しが弱くなった3時過ぎに歩いて花屋まで行き、花を買ってきた。鉢植えの白い芍薬の花を2本切り、矢車草も数本切って花束に加えて、菩提寺に行った。
白い芍薬とピンク色のカーネーションなどの可愛い花を母の墓前に手向けた。会いたくなったら、お墓に来るしかないのは寂しいが、それでも花を手向けるとこころがやわらいだ。
家に帰ると夕食の支度の時間になっていたが、百日草の種を今日中に蒔きたくなり、急いで蒔いた。種は30粒あまり。ポット鉢4つに分けて蒔いた。
撒き終えたとき、近所の奥さんが家の裏手の細い道を通りかかり、話しかけてきた。
フェンス越しにしばらく話した。鷺草の球根の植え付けを手伝ってあげたが、花が咲くのが楽しみと言ってくれた。