掘り炬燵を出す

 朝はかなりひんやりとした。
 薄めの夏掛けと厚めの夏掛けを二枚かけて眠ったが早朝はこれらの布団では薄すぎた。厚い羽根布団を出し、くるまるとほっとした。
 初秋から一気に晩秋まで歩を進めた感じだ。
 例年は掘り炬燵を出すのはもう少し後、10月終わりぐらいだったと思うが朝のひんやりした空気にうながされ今日出すことにした。
 掘り炬燵を出すという秋のささやかな行事みたいな行為。繰り返してきたことが積み重なって今がある。父母がいるときも父だけがいるときも家族が柴犬レオだけになったときもひとりのときも老犬ももこがいる時も掘り炬燵を出してきた。
 いままでと同じ動作を繰り返して居間に掘り炬燵が作られる。掘り炬燵にはたくさんの時間が積み重なっている。
 犬がいたらなばきっとここで気持ちよく眠るだろうという場所を炬燵のそばに作った。わたしがいる場所より広くとった。空いている場所は空気だけがある。空いているということは空気の居場所。わが家には空気の居場所がたくさんある。
 今日は掘り炬燵を出すこと以外にもいくつかやりたいことがあった。そのなかで掘り炬燵を出すことを優先させた。
 見たい映画がある。見たいと思ったときに行きたい。
 図書館に車で行き、本を一冊返却し、新しく5冊借りてきた。すべて短歌集である。短歌から少し離れた本を読みたいと思い一年くらい過ぎたのではないだろうか。習慣のように読んでいるわけではない。いろいろなことを学んでいる(つもり)。
 借りていた本を今日でぜんぶ返したつもりなので、パソコンの画面を見ている図書館の人にあと一冊貸出期間が過ぎている本があるといわれ、驚いた。そのひとはあと一か月返さないと貸出がストップされますと言った。なぜかむかっときた。
 家に帰り確かめるとその本はなく、図書館に電話して確認を求めた。電話を切りしばらくすると折り返しの電話があり、返却ポストの底にその一冊が見つかったとの返事だ。申し訳ないですとていねいにあやまってまってくれた。さきほどの人とは違い、あくまで物柔らかな言葉と態度で接するこういう人が公共の施設の窓口になってくれるととても気持ちがいいし、こちらも感謝の気持ちを持つことができる。