昨日の日曜日はよく晴れて午前中は北風が強く、寒さが厳しかった。明治神宮で開かれる月次歌会のために10時半ころ家を出た。
最寄りの駅に向かう道は風を前から受け日陰だと寒さをいっそう感じた。
JR原宿駅前は陽射しが降りそそぎ寒さがやわらいで感じられる。鳥居をくぐると陽はあまり差さないが風もなく神宮の森のなかにある社務所まで歩いた。
12月の歌会の講師は来嶋靖男さん。当座は「犬。」会場の前におかれた白板に当座を見た時、犬の歌はあまりにもたくさん詠んできたのでかえって難しいと思った。こころひそかに「犬」というテーマはわたしだけのものと思っていたので急に白日のもとにさらされたようで妙な異和感、プレッシャーがある。
提出した歌は佳作4を来嶋先生からいただいた。老犬ももこが死んだときの歌は昨年8月、ももこが亡くなってすぐ詠んだがすべてを詠み切ったとは思えなかった。その後何首か詠んだ。何首詠んでもまた詠みたくなく、今日また詠んだ。
息絶えて数秒つづく心音にわが手はすがり犬の死を知る
「絶えて」を「絶へて」と表記したが旧仮名遣いでは「絶えて」であると指摘された。「わが手はすがり」の言い方が気になるが犬の死の悲しみが伝わると評価していただいた。わが手はすがりは切迫感、受け入れられない気持ちを主観的に表そうとしたが感情的な表現であり過ぎるようだ。
息絶えて数秒つづく心音をわが手に聞ひて犬の死を知る
上のように直した。手に聞くはあり得ないといえばそうだが犬の胸に触れた手に感じたことなのでこういう表現にした。
息絶えて数秒つづく心音をわが手は確かめ犬の死を知る
こういう詠い方もある。「確かめ」という言い方はどうだろうか。主観的には「確かめる」つもりはまったくなく、かき抱いた手がももこの最後の心音を感じたということだが。結果的には「確かめた」ことになったのかもしれない。
来嶋先生の出題された12月の兼題の歌も選外佳作に選ばれた。
冬芽とふ数限りなき未来得て梅の古木は陽光をあぶ
冬の庭の梅の古木を詠んだ歌だが年を重ねた自分への応援歌の意味も重ねた。
月曜日の朝は冷え込んだ。テレビを見て東京は氷点下になったと知ったが庭に置いてある目高の水瓶が凍ったのは見なかった。庭に出たのが9時近くだったからかもしれない。
午後2時頃から庭仕事をはじめた。先週の土曜日に途中まで切った名無しの落葉樹をき今日はぜんぶ切った。太い枝を一本と幹から出ている大小の枝をすべて切り落とした。大きな拳を振り上げているような姿になった。土曜日に切って隣家の裏庭に落ちた枝はまだそのままになっている。3時頃、隣家を訪ねたが留守だった。庭に入らせてもらって大枝をわが家に移動させたいのだがまた別の日にすることにした。
昨日詠んだ他の歌はたまたま動物の歌が多かった。
牛飼ひの呼ぶ声に牛らはしたがひ遠くより歩きくる
一日で60キログラムの草食むとぞあその草原の牛ら
おとなしく人にしたがふ牛見れば人とふ動物 傲慢かも
あそビーフのロースト売る販売車メニュー表に「おかげでビーフ」と
母体より引きづり出されわづかののち自らの足で歩き始める子牛
最後には命までさし出す従順さ やさしすぎる牛の目を見る