夏休み前、最後の武蔵小杉の歌会

 昨日のことである。8月の夏休み前、最後の歌会が開かれた。武蔵小杉駅前のビルの一室で開くので武蔵小杉の短歌会とわたしの中で名付けている。
 いつもは月一回だけ出席しているが7月は2回出席することになった。2回目の今日、暑気払いの会が開かれるからだ。
 先週の火曜日、一回目の歌会に出席し、11日後の今日また出席することになり、少々わたしには多いかなという気持ちも。
 最近、歌を詠みつつ表現したいことを未消化のまま歌にしているという自覚があって、何首詠んでも未達感が残る。もっといい詠い方があるはずだという思いがあるがそれがどうしたらできるのか。わからないままそれでも詠い続けているのが現在のわたし。
昨日の歌会に出した歌は誰にも選ばれないというさみしい結果になったがあまり気にしていない。先生の指摘は的確でこうすればいい、こう考えればいいというポイントを教えてくれた。

 川沿いの道行くバスに喪服の人乗りきて見るわれも喪服

 叔父の葬儀に出かける時乗ったバスに喪服の女性が乗ってきて日曜日のバスで目立った、思わず目をやったがそうかわたしも喪服だったと。先生は初句と二句がまったく生きていない。季節感がこの歌にないのもいけないといわれた。川ならどんな川か具体的にした方が詠む人にイメージが伝わると。季節感を入れるために思い切ってバスを通る道を変えてもいいと。歌のためなら設定を現実にこだわらず歌がよくなるように演出してもいいと言われた。

 葉ざくらの下行くバスに喪服の女乗り来しを見る私も喪服  (先生が添削された)

 多摩川沿いを行くバスに喪服の女乗り来しを見る私も喪服   (わたしがなおした)

 もうひとつの歌は

 赤色の濃い薄いの実がみちて愛に耐へるやすももの木は

 先生は「愛に耐へる」という表現がわかりにくいと言われた。わたしが詠いたかったことは庭のすももの木がたわわな実をつけて細い枝がしなっているさまを見て、愛の重荷ということばが浮かんでいた。生きていることにさけられない重荷と言い換えてもいいかもしれない。たくさんの花が咲き、そのままたくさんの実がなることはよろこばしいことかもしれないが木はその重みに耐えている。あなた大丈夫?大丈夫じゃないよね。父母や愛犬二匹を介護し、看取ったわたしに「重荷」というところが重なる気もした。死にゆくものを見守ることと、花を咲かせ実をつくることを重ねて見るというのも飛躍し過ぎかもしれないがどちらも命の営みにが変わりがない。

 濃き赤と薄き赤との実を幾許(ここだ)つけたるすももの若木よ案ず  (先生が添削されたもの)

 すももの若木がこんなにたくさん実をつけて大丈夫なの?と心配している気持ちを詠った歌にした。こちらのほうがわかりやすい。ひとつの歌にいろいろ思いを重ねるのはやめたほうがいい。ひとつだけをしっかりと伝え、その奥にあるものや歌のひろがりを読み取るのは詠み手にゆだねる。

炎天下アスファルトの上を飛ぶ綿毛のむなしい努力の行く末

誘蛾灯によせられるごとく駅前の盆踊りの輪にわれは近づきたり

わが町の盆踊り高齢化の波にのまれてなくなるを思い出しつつ

老いたるも幼なも若きも踊りの輪になりひと夜にぎわふ広場

われが来て一羽の雀飛び去り仰向けになる蝉残される

仰向けの蝉のうへに梅雨明けの青空ひろがる葬送の青

思い出したやうに手足動かす蝉つぎに見れば失せており

さきほどの雀に今度はしとめられるか他の命の糧となりて

対岸の高層ビルを河原の木が隠すひとところしばしやすらふ


鷺草の小さき小さき花芽のび老犬ももこの命日近づく

鷺草の花芽ひとつに一羽二羽の小さき鷺が眠つているなり

ふつうの梅漬けの梅を2キログラム干した
この写真だけを見ると老犬ももこがいた昨年とまったく変わりがない
昨年も同じように2キログラムの梅を脚立の上に笊をのせて干した


花壇に植えた百日草も咲きそろってきた
今年は種子から蒔いた百日草の育ちがよい