短歌雑誌に発表した歌から

 雨は降らないが雲が厚い梅雨空の日曜日。お昼前から気まぐれな陽射しが出てもうれつに暑くなった。その暑い時間にコンビニに買い物行ったが、入らずに通り過ぎたコンビニの前で柴犬に似た雑種の犬が日に照らされてはあはあしているのを目撃した。その先のコンビニで買い物をして帰る途中、さっきのコンビニの前でさっきの犬がワンワン吠えてここは暑いよ、早く来てとばかりにリードを引っ張り跳ねているのを見た。人は涼しい店内にいるので暑さはこたえないがもっと自分の犬に思いやりをもて!と怒りが湧いてきた、同時に涙が出そうになったが外なので我慢。
人間は自分勝手な生き物でのど元過ぎれば熱さは忘れるし、どうしようもないやつだが小さじ一杯ぐらいのいいところもあるので許せよ、犬たち、人間以外の生き物たち。だが生き物の必死に生きるさまを見ると肩入れしたくなる。応援歌のひとつもうたいたくなる。どちらかというと人に対してよりも犬をはじめとした動物に対しての気持ちだが。
 年に4回発行している短歌雑誌「しらぬ火」に今年の1月から短歌を投稿している。今年の4月に送った歌が掲載された雑誌が昨日届いた。
 「水を詠む+2」というタイトルで水という文字が入っている歌を6首詠み、他に2首詠んだ。他の2首のうち1首を取り上げて講評してくださったがそのなかの一文がわたしに強いインパクトをもたらした。
 歌は 「大欅の向こう夏の雲立ち朝顔の種まけとうながす」
 まだ春なのに夏の雲が出た一日があり、欅の木の向こうに雲を眺めて朝顔の種を早めに蒔かないと、と思った。そんな心の動きを詠ったのである。
 「ユニークな内容の掲出歌も『朝顔の種まけ』が何かを暗示しているようで再生の歌とも読める。」(しらぬ火2017.6 )
朝顔の種を蒔く行為に対して「再生」というキーワードを出してくださり、自分のなかでそうなのかと思うところがある。朝顔の歌を何首かその後も詠んだが、それらの歌をたどると再生という意味がよりくっきりとしてくる。
 最近読んでいる小中英之氏の歌集にも種を蒔く歌が何首かあり、この一点でわたしと通じるものがあるなと思っていた。他にも花の歌が多く、その独特な歌い方に魅せられ共感している。
 小中氏の種蒔く歌を数種「小中英之全歌集」(砂子屋書房)から抜粋してみた。ぜんぶの歌に目を通したわけでないので推測に過ぎないが氏の晩年近い時期の歌に多いようだ。自由に旅に行けなくなってからだろうか。


「花種子をえらぶはむなし臥しをれば風船葛の種子とどきたり」(定本過客1995年)

「約束の種子といわれて手のひらに風船葛の種おかれたり」(同上 1995年)
 
「忘却の幕ひくごとく夜を起きて絹糸草の種子を蒔きたり」(同上 1997年)

「許せざるものを許して花の種子まけば鴉が大きく嗤ふ」(同上1999年)

「苦瓜を種子より蒔きて育てんか人生いくばく苦きをうべなふ」(同上1999年)

 
つゆ草の園芸品種の花
花が大きいのが特徴

鷺草はどことなく元気がないように見える
葉っぱの色がぱっとしない
この夏は花数が少ないかもしれない
いちばん鷺草の花がきれいにたくさん咲いたのは一昨年で
老犬ももこが春にこの家に来たその夏である