朝はまだ風が冷たく明日から3月だが春はもう少し先のようだ。
午前中は近くの特別支援学校に行き、売店でたくさんの野菜を買った。人参、大根,あじみ菜、白菜、ブロッコリー。ひとりでこんなに食べるのというくらい。
犬友だちとその友だちも合流してコーヒーを楽しんだ。挽きたてで入れたてのコーヒーを味わった。
3月第二週に開かれる短歌会のための歌を推敲した。4首の歌を推敲し、そのうち2首をFAXで送った。送らなかった2首は新聞歌壇に投稿した。
口語ではなく文語で歌を作るので動詞の活用形や助詞との接続がよくわからず、広辞苑を見ながらの推敲だ。つい使ってしまいそうな言い回しが文法的にはありえないことがわかったりする。
庭の花が少しづつ増えてきてまた春を迎えられる喜びをかみしめている。庭仕事の成果が見えるかたちになったとき感じる気持ちは大げさかもしれないが生きている喜びといってもいいくらい。
春が一歩一歩と近づくにつれて、ももこがいないことがずっしりと心を重たくする。ももこがこの家にはじめて来たのは3月9日だから。春たけなわになる一歩手前くらいにももこはこの家に来た。この家に来てお試し期間を経た後、正式(?)に家に迎え入れたばかりももこと近くの川岸に咲くソメイヨシノを見ながら散歩したことを思い出す。
最初の頃、ももこはこの家での生活も、家の周りの環境も目新しいことばかりで老犬なりに好奇心をもって行動していた。散歩は東西南北を探検するようなところがあった<短い距離だけれど)。家の中ではわたしが朝夕仏壇にお線香をたくのがももこには不思議でたまらなかったようだ。
仏壇の前にわたしが座ると謎をとこうとするかのように、ももこは最初遠巻きにしていて少しづつ近づいてくる。わたしが「おいで、おいで」と言うからこの言葉に励まされたのかもしれない。わたしはももこを抱きよせ、隣に座らせ「いっしょにおじいちゃん、おばあちゃんにあいさつしようね」といい、ももこの身体に腕を回して手をあわせた。
お参りが終わると「ももこはいい子だね、ありがとう」と言って立ち上がり居間に戻ってきた。
ももこにとって仏間はいつまでも不思議な部屋だったようだ。誰もいないのにわたしが何かに話しかけているそんな気配を感じていたのだろう。
闘病生活を送った数か月、昼間は居間に置いたベッドに横たわっていたがわたしが隣りの仏間に行くのを嫌がっていたそぶりを見たことがある。いや、仏間だけでなく他の部屋に行くのを嫌がっていたのかもしれない。見えるところ、気配を感じ取れるところにわたしがいてほしかったのだろう。
早春の庭をつぐみが「だるまさんころんだ」しつつ歩ひていたる
咲き盛る沈丁花を抱きよせぬ花の香りをかき抱く如く
夏の夜沈丁花の木の横に老犬ももこ抱きて座りき
その夜は老犬ももこのこの世の最後の夜となりにしを思ふ
睦月(むつき)過ぎ家の周りも変わりたりわが犬おりし夏は遠し