今日は柴犬レオの命日

 柴犬レオが他界してから今日で3年になる。保護犬ももこがわが家に来る前は、骨になったレオと暮らしているような感覚があったが、ももことの暮らしを重ねるにつれて、亡くなったものへの辛すぎる執着は薄らいできた。
 とはいっても早朝や夕方、ひとりで庭に出るとレオのことを思い出すことが多い。
 昨夜、レオの遺骨を安置した祭壇をきれいにし紫陽花の花をお供えした。紫陽花の季節にレオはこの家を去ったのだから。
 今日はコンビニに行く途中、父とレオとわたしといっしょに歩いた道をたどってみた。昔の農道のような道で、人は通れるが車は通れない細い道である。10数年前の夏の終わりごろ、近くのお寺にわたしたちは向かっていた。父が現在のわたしより若い頃、そのお寺の墓地を購入し、20数年を経て墓石を建てることになった。権利書のようなものを父は持っていたが墓地の場所がどこなのか記憶がなく、その確認と墓石を建てることを伝えるためにお寺の住職を訪ねた。
 父とレオとわたしがそろって歩いたのはこれが最初で最後だった。レオを境内のどこかにつなぎ、わたしたちは住職と話した。住職は墓地を購入してから20数年も何の音沙汰もなかったことに対してさらっと嫌味を言った。境内には新しい五重の塔が建てられており、そのための寄進を父に申し出た。父はかなりの額を寄進した。墓地を購入してから長い時間がたっていたことを父はどこかで後ろめたく思っていたのかもしれない。わたしは年老いた父からまとまったお金を引き出した住職に心のどこかでざらついた感じを抱いた。
 なにはともあれ、父は墓石を建てることができてほっとしたにちがいない。
 父とレオとわたしと、初めてで最後の短い散歩。その道を10数年前と逆に辿りながら、亡くなったレオを偲んだ。父のことも。
 道を歩きながら、今いっしょに暮らしている老犬ももこにはこういう思い出はないなと思った。ひとりになったわたしのところに来たももこにとって家族はわたしだけ。他の家族との思い出はないが、ももこが縁で友だちができた。その友だちとももこを間にはさんでの交流が、いつかいい思い出になるような気がした。