陽射しあふれる日曜日、疲れが出た

 朝はいつものように老犬ももこの友だち犬とその飼い主さんといっしょに歩いた。30分にも満たない短い散歩だが毎朝気持ちいい時間が過ごせる。ももこを散歩させていた時間をこうして過ごせることは救いにもなっている。
 散歩から帰り少し休んで今度は近くのお寺にお墓参りへ。昨夕、図書館に行った帰りに花屋さんに寄って小菊の束売りを買ってきた。オレンジ色とピンク色の小菊に庭の千日紅を合わせて花束を作り持って行った。秋のお彼岸以来となるがスポンジと古タオルを使ってお墓を掃除した。きれいにしたお墓に花をお供えし、お線香をくゆらしていつもより長く手を合わせた。最近、なぜか母親のことがよく思い出される。庭や家の中で在りしの母の姿を思い浮かべることがある。
花が咲き乱れる庭を母に手を貸しながら見て歩いたことや、今は仏間になっている八畳間の外廊下に置いたシクラメンの鉢をきれいだねと言ったことなど。もしかしたら、ももこをなくして心身共に傷ついた娘を気遣って、そばに来てくれているのかもしれない。
 午後になり、昼食をとった後疲れを感じた。自室に布団を敷き、横になったが眠ることはなかった。昨夜は7時間近く眠っているのだから。ただ、疲れていることは確かで何かをしようという気が起きないが、皇后美智子さまの歌集を少しだけ読んだ。この方の詠まれた歌は心にしみとおるようなやさしさがある。
 まだ陽がある時間、横になった自室から外廊下を見ると端のほうに陽だまりができている。ここでももこのベッドを日に当てていたらもも子がいつの間にか眠っていたことを思い出した。しばらくたち、いつのまにか廊下の端は陰っていた。わたしが横になっている部屋にも夕影が差してきた。この時間に横になっていると、ももこが歩いて部屋の中までわたしの様子を見に来て、散歩の催促をしたことを思い出した。なかなか起きないと何回でもやってきた。わたしは横になったまま、ももこを見るのだが後足がおぼつかなく開いていて歩くのが大変そうで、あごのあたりの筋肉も垂れていて、ああこの子は年なんだなとつくづく思った。こんなことを思い出したら無性にももこに会いたくなった。
 ももこがわたしを起こしに来ないのでひとりで起きて居間に移動したが、ほんとうに寂しい。


秋の午後陽だまりに犬影なくて揺れる葉影に寂しさつのる

目をやれば廊下の端に日がさして眠れる犬の姿消えおり

夕闇の部屋に歩き来る犬おらずわれを起こして散歩を誘うため


ももこがいた夏には赤色に白のぼかしが入ったインパチェンスが咲いていた鉢に
ビオラとガーデンシクラメンを植えた