今日は柴犬レオの16回目の月命日

 朝は曇りから、小雨が降り始め、お昼前から本格的な雨になった。肌寒い一日で、掘り炬燵にさっそくヒーターを入れた。
 16歳と二か月余りで亡くなった柴犬レオの月命日なので、お骨の横にお供えした花を切ろうと、植木鋏を持って庭に出た。秋が進むにつれて庭の花はだんだん少なくなる。菊が咲くにはまだ早い。
 百日草を3〜4本と、ミニバラを一本、赤い花のパイナップルセージ、雪柳とレモンバーベナの枝を切った。お仏壇は昨日、敷物を変え、ほこりを払うなどきれいにした。
 レオはわたしの心の中に住み続け、今もある意味でいっしょに暮している。そうは思っていても、ふと気づくとやはりレオはいないから、身が切られるように辛いこともある。
 月命日だから、レオの写真を見て絵を描こうと、パソコンに保存している写真を開けて見た。2010年。老いてはいるがまだ元気なレオ。庭の通路の先でわたしを待っているレオの尻尾がくるっと腰の上まで回り、光を受けて銀色に輝いている写真を見て、泣いてしまった。レオの自慢の尻尾。わたしが大好きだった尻尾は、この年まで健全(?)だったのだ。多分、2011年にはこのように腰の上まで上がらなくなったのではないか。
 結局、2013年5月28日に、庭の通路に寝ているレオを撮った写真を選んだ。このとき、わたしは通路の先にある花壇で、花苗の植え替えをしていた。これがレオがいる庭での最後の植え替え作業になってしまった。何を植えたかも覚えている。この時植えたラベンダーとベロニカだけが今も花壇に残っているが、どちらも高温多湿の日本の夏を嫌う花なので、このままにしておくと来年あたり消えてしまうかもしれない。
 レオの写真を見ながら、鉛筆で下描きをする。レオは右の手を顎の下に置いて、左の手は前に伸ばしている。その手の横に青梅がころがっている。そろそろ梅の収穫を迎える時期だった。生きていること、死ぬこと。あの時は生きていたのに、今はいないレオ。写真のレオの安らかな寝顔のままになんで生き続けることができなかったのだろう。

 いくら一生懸命生きても、いつまでも生きられるわけはない。雨に濡れたアスファルトの道路で食べ物を探す鳩も、地面の下で土を食べているミミズも、傘をさして買い物から帰るわたしも、雨合羽を着ている警備のおじさんも、下校する女子中学生たちも、短い長いの違いはあっても、命に限りがある。


レオの写真を見ながら太めの鉛筆で下描きした
もう少し手を加えて、水彩絵具で色をつけるつもり


千日紅の絵も描きたかったが雨が降っているので描けなかった