植木屋さんが庭に入る

 朝8時半ころ、家の前の道路からエンジン音が聞こえた。いつも頼んでいる植木屋さんがやってきた。2011年から昨年までは3月か4月に来ていた。今年は梅の木の枝が伸びて通路や隣家へ張り出してきたので、木の高さやひろがりを抑えるために梅を収穫した後にした。春だと梅の実が結実し始めるので、生かしたいという気持ちが働き、どうしても剪定が甘くなるからだ。
 庭のいちばん奥に植えてある柿の木の太い枝〈幹といいたいくらいの太さ)も一本、チェンソーで切った。垂直に伸びていて、その枝から分岐した細い枝に付く柿の実が取れない高さになった。高枝鋏でなんとか採れる高さに抑えたい。
 道路から玄関に続く通路の真ん中あたりに、2階の屋根まで届く高さの棕櫚の木があるが、これを思い切って切ろうかどうかという話になった。父がまだいた頃(多分4年ほど前)、台風が来たら倒れるのではないかと父が心配し、切った方がいいのではないかと植木屋さんに聞いたことがある。そのときは棕櫚は台風で倒れるほど軟ではないということになり、切らずにそのままになっていた。今年になって、このまま放置すると2階の屋根を越して手が付けられなくなるのではと思い、切ろうかどうか考えた。だが、わたし自身、体調がすっきりせず、こんなことでも決断ができない。元気だったら思い切って切って仕舞おうと思ったかもしれない。柴犬レオがいた頃、庭にあった木を切るのも寂しさを感じた。父が亡くなってすぐ、庭のいちばん奥の端に植えたソメイヨシノの古木〈樹齢50年以上)を伐採したが、あのときは太い幹の根元が蟻に食われて半ば以上、空洞になっていたので、木が倒木する危険があった。そのため、空洞に気が付いてすぐさま伐採する決断ができた。
 昨年や一昨年、一昨々年も、植木屋さんが家に来るとわたしも外に出て、剪定した枝を束ねたり、同じように働いていたのだが、今年はそんな元気がでない。時々庭に出て、剪定の進み具合を確かめるだけ。剪定した枝も持って行ってもらうことにした。いままでは剪定枝を自分で束ねて、燃えるゴミの日に何回かに分けて出していた。10回くらいに分けていたかもしれない、それほど膨大な量だった。今年は体力も気力もない感じ。
 レオがいないことが長い時間をかけてわたしの生きる気力を奪っているのだろうか。最初の衝撃はしのいだと思ったが。気が狂うほどの辛さがないからといって、心が辛さを感じていないわけではない。

 夕方、昨日活けた花を活け直した。気に入らないところがあったから。花を見て花に触れていると、心が少しやわらいだ。
 その後、夕暮れの住宅街を散歩した。レオとよく歩いた道をレオを偲びながら。レオの命日(6月15日)とその翌日、こんな散歩をしたが、その時以来だ。目に涙が浮かんできた。涙はこぼれなかった。


向こう側が見えないほど繁り、膨張していた金木犀
こんなにすっきりとした
この木がどれほど日の光を遮っていたかと思う


金木犀の枝の一部
今年は植木屋さんに持って行ってもらうことにした