ベニカナメの剪定を再開する

 そろそろ切らないといけない、と思っていたベニカナメの剪定を再開した。家の敷地の片方の境に、なんでこんなにたくさん?と思うほど植えらている。敷地の奥の方は少し前に切り終えた。
 道路に面する方に向かって、今日は剪定を始めた。道路に近づくほど日あたりが良くなるので、枝が混み合い、葉の茂りが多くなる。
 昨日は月一度の歌会があり、会場の冷房が効き過ぎていて身体が冷えてしまい、夜になり体調を崩した。朝起きてもそれほど元気が出てこないので、効率よく切ることにした。まず、脚立に上がらずに切れる木の側面を刈り込んでいく。これを何本かまとめて行い、次に脚立を移動しながら、木の上の方を切っていく。前は数本単位で切っていたような気がするが今日は7〜8本くらいまとめて側面を切ることにした。ベニカナメの木の上の方は休んで体調を整え、今日の夕方か明日に切ることにした。
 身体の調子がいまいちなので、庭仕事をさっさと進めることができない。身体と相談しながら、休みながらしている。4年前の5月も猛烈なめまいに襲われ、救急搬送された後、家に帰ってからもめまいが続き、身体をだましだましツツジや柘植の垣根の剪定をしたのを憶えている。あのときより年はとったが、介護をしなければいけない父も、世話が必要な愛犬もいなくなったので、何とかなるだろうと思っている。


 昨日の明治神宮の歌会は、いままでとどこか違う自分を感じた。今までは講師の方がわたしが出した歌に対して何をおっしゃられてもなるほどと思い、素直に耳を傾けていた。が昨日ははじめて先生の言葉に傷ついたという気持ちになった。講師の方は「いい歌を音読して歌の調べを感じ取るようにしなさい」とか「そんなにすぐにいい歌が詠めるわけはない。先生について具体的に指導をしてもらいなさい」と言われた。親切なアドバイスではあるが、わたしは別の何かを感じてしまった。その何かはここでは書かない。言葉は難しい、その人が意図して使ったことばが届いた相手には違う意味を伝えてしまうこともある。
 いろいろ考えてわたしがたどりついた結論は、講師の先生のアドバイスはできる範囲内で取り入れて行こう、そして短歌をはじめた原点を大切にしよう。柴犬レオとここで暮らしながら、その時々の思いを拙い短歌や俳句に託してつくった。あれが短歌や俳句と呼べるものかはわからないが、わたしの抜き差しならぬ思いから生まれたものだ。短歌や俳句という日本の定型詩は人の思いを伝える表現だというが、それならわたしの思いを大切にし、作ろうと思った出発点を忘れないようにしよう。
 ちなみに昨日のテーマは「うた」または「うたう」である。70数人の方が出席されたが、いつもよりはいいなと思った歌が少ないように思った。ただ、「天地人」の「天」を受賞された歌はすばらしかった。


ミニバラ’フェアリー’が花盛り
この薔薇は花がついた枝を切ると、そこから新枝を伸ばし次の花が咲く


生け花教室の仲間からいただいた甘夏を描いてみた
これで心置きなく食べられる