朝顔の種まき

 起き掛けに父母が出てくる夢を見た。この家に母がいて、わたしは夜眠るとき母が眠る横に布団を敷いて眠った。朝起きて母によく眠れたかと聞くと、目が覚めたら朝だったからよく眠れたと答えた。その夜も母の横に眠ろうとすると、父がわたしが眠ろうとする場所に布団を敷いている。それなら続きの隣の部屋で母と眠ろうと思い、父にお母さんはこっちの部屋でわたしと眠っていい?と聞くと、いいよと答えた。ここで目が覚めた。母は生前、夜中に起きてトイレに行くのでよく眠れないとこぼすことがあったので、こんな夢を見たのだろうか。母のそばで眠れば、母も安心して眠れると思ったのかもしれない。
 今日は一日中ほとんど家にいた。庭に出たのは数回だけ。鉢植えを日の当たるところに移動したり、メダカの給餌のため、午前中2回くらい。次は午後、朝顔の種まきをした。昨年より数日遅い種まきだ。ビニールポットに土を入れ、水をかけて湿らせ、一つのポットに3〜4粒の種を蒔き、薄く土を被せてまた水をかけた。気温が上がれば、4〜5日で芽が出るだろう。
 夕方は駐車場の後ろに植えた白梅の木が枝を四方に伸ばし放題なので剪定した。この木の後ろにスモモの木があるので、日当たりをよくするためでもある。背が低い梅の木なので脚立がなくても切れた。
 図書館から借りている『「東京物語」と小津安二郎』を読み切った。時間がこの映画の真の主人公ではないかという結論、なるほどと思った。誰にも訪れる大切な存在との別れ。時間が過ぎて、気が付いたらいろいろなことが変わっていたということは生きていれば当たり前のようにおこる。時間は誰にも平等に流れ、取り返しのつかない変化をもたらす。父母を亡くし、愛犬を亡くしたことを、受け入れがたいと思いつつも受け入れて生きているが、『東京物語』という映画に登場する人たちも、時間がもたらす変化を静かに受け入れて生きていると思うと、60年以上も前に作られた映画を身近に感じることができた。時代を超えた普遍性こそ、東京物語という映画のすごさなのだろう。


名前のわからないオールドローズ
昨日の雨で、一番花は散ってしまった
この写真は5月10日に撮ったもの