今日は母の命日

 今朝は冷え込みがきつく、庭のいたるところに霜柱がたっている。庭で一番寒いのが駐車場の後ろだが、ここは日中もとけることがない。桃の木の下など植込みのあるところは霜柱がたつことはほとんどないがここにも霜柱が立っているのを見て、驚いた。
 今日は6年前に亡くなった母の命日なので、午後お墓参りに行き、その足で花屋に寄り、花を買い、さらに駅前の店で母の好きなお菓子を買った。墓参の後に花を買ったのは家の仏壇に手向けたかったから。お墓には弟が明日来ると言っていたので、前の花を(元気だったので)そのままにして水を替えた。
 今日は母の命日であると同時に、母の8歳違いの妹〈わたしにとって叔母)の命日でもある。二人とも同じ6年前の同じ日に亡くなったのだ。おかしなことに、6年たってはじめて、叔母のことを今日の命日に供養する気持ちになれた。今までは母のことだけが頭にあり、叔母のことをほとんど意識に上らせなかった。叔母に対する屈託があったともいえる。その屈託がまったくなくなったわけではないが、叔母の生涯を振り返り、その死を悼む気持ちになれた。
 愛犬のレオがなくなって迎える初めての母の命日ということも、今までとは違う思いを抱いた。レオはもう家にないが、おばあちゃんの命日だからお墓参りに行こうねと話しかけ、レオの写真を持ってお寺に行った。墓石にレオの写真をたてかけると、レオはいないのだとあらためて思った。昨年の命日から一年の時が過ぎたことをしみじみかみしめた。


 5年半ほど使って決定的なトラブルを起こし、使えなくなったパソコンに代わって、同じメーカーの新しいノートパソコンを手に入れた。春の新モデル発売前の在庫一掃セールをおこなっていて、アウトレット価格で買えたのはよかったが、新しいパソコンにはなかなか慣れない。文字入力の速度が落ち間違えが多いのはパソコンが変わったから、とはいえないが、長い文章を入力するのが大変。
 前のパソコンが使えない間、2004年に買った古いノートパソコンを何とか使おうと四苦八苦したが、速度が遅く、クリックした後、お茶を入れに席をはずしてもそのままのことがあり、これではパソコンの用が足せないと思った。新しいパソコンを買ってから、ハードディスクの容量やメモリーの量を比べると、古いものはあまりにも少ないのに驚いた。新型ノートパソコンのハードディスクのドライブ容量はCドライブ926GBに対して、10年前のものは60GB(CとDあわせて)。5年半前に買ったノートパソコンでもハードディスクドライブは250GBだ。
 今現在は、新しいパソコンの容量に対してこんなに使い切れないと思っているが、これでは足りないと思う日が来るのだろう。
 ただ、こんどのトラブルで文字の記録に関しては、パソコンに頼らず、ノートの手書きがいいかなと感じた。ブログを始めて柴犬レオがいたころから短歌や俳句を書きちらしたり、読みたい本、見たい映画をメモしたり、レオの様子を走り書したり、お菓子や料理のレシピを記録したり、日常の思いついた、記録したいことをさまざまに記したノートがあり、それをパソコンと格闘する合間にぱらぱらと見たら、レオと暮らした日々のぬくもりがじんわりと伝わってきた。こういう書き方もいいなと思った。生活の断片だが、こういう小さなことの中にこそ、わたしが記憶に残したいものがあり、生活の輝きがあるような気がした。

この寒さの中、沈丁花のつぼみは着実に大きくなり
赤みをおびてくる