柴犬レオとの会話

 ここ数日、というか連休中、亡くなったレオのことを考える時間が長くなった。仏壇に飾ってある写真を見ると、その屈託ない笑顔が心に突き刺さるようだ。
 2006年から書いている5年日記(1ページに2日間、5年分の日記が書けるようになっている)を一度読んだら止まらなくなり、2011年と2012年の秋から冬にかけてを読んだら、ああ、こんなことがあったんだということがいくつもあり、そのときのレオの様子が鮮やかによみがえってきた。
 ケイタイ電話で撮影し、パソコンに保存した写真も2007年から今年の春くらいまでのものを見直して、在りし日のいろいろな場面でのレオが思い出され、たまらない気持ちになった。気持ちがぐらつき、大粒の涙があふれた。レオの骨壷を手で抱くようにして、泣いた。
 レオに詫びなければいけない、たくさんのことが思い返され、心の中のレオと話した。話したのは家の中でだったり、朝の散歩中だったり。
 レオになるべく長生きしてほしいから、あれこれがんばったわたしをレオはどう思っていたのだろう。レオはこの家に本当はいたくないのに、老いてどこにも行けないからわたしの側にいたのだろうか。レオはわたしに、身体が不自由になってからも、元気な時も、この家を出て行こうと思えばいつでも出られた。でもこの家に、わたしの側にいたいから、いたんだよと答えた。がんばってくれたことも知っていたから、僕はがんばったんだ。たくさん食べたり、水もたくさん飲もうとしたよ。少しでも長くいっしょにいたかったから。僕は自分の本当の気持ちでここにいたんだよ。すまなく思うことなんかないよ。哀れに思うこともないよ。
 これを読まれた方は何を戯言を、と思われるかも知れないが、大真面目にレオと心の中で会話した。
 元気な時でも、ことばでの会話はできないのが人と犬だが、お互いになんとか相手のことをわかろうとしてきた。レオが亡くなり、心の中でレオと話して、レオがわたしのそばに共にいて、わたしもレオのそばに共にいたことは、お互いが受け入れた、ひとつの運命だったのかもしれないと思うようになった。わたしの気持ちが本当にわかるのはレオだけと思うことがある。


 明日はレオの4回目の月命日。少しずつ気持ちが落ち着いてきたと思ったら、表面的な落ち着きを引っくり返すような揺さぶりがあった。
 でもレオと暮らした日々の積み重ねをいつか心の糧にできるようにしたい。レオもきっとそれを望んでいる。

大型の台風26号が日本列島に近付いている。実がなって頭でっかちなので庭の柿の木が心配。


レオと2回入ったことがあるお店のテラス席
今日はここでランチを食べた
足元に座っていたレオの幻が見えるような気がした


テンダーピンクという種類のダリア
花びらが豪華なデコラティブ咲きだが
春先のほうが大輪の花を咲かせた