母が亡くなった病院へ

 寒の入りとなったが、今朝はメダカを飼っている水瓶が凍らなかった。ベニヤ板を被せているが、冷え込みが厳しいとそれでも薄氷が張ってしまうのだ。
 午前中、bikenwakabaさんのブログを読んで、ふと思いつき、ムスカリの小さな球根を庭に植えた。bikenwakabaさんはチューリップの小さな球根、それも米粒ほどのものまで植え込んだそうだ。わが家のムスカリの球根も小指の爪の半分くらいの大きさのものに、小さな緑色の芽が出ているのを見て、この命をつなぎたいと思った。
 わが愛する柴犬のレオがまだこの家にいた昨年の春、花壇を彩ったムスカリのその命がここにあるのだから。あの春、共に生きた命を今年の春も、と思った。例え、小さ過ぎて花が咲かないにしても。レオがいるときは、小さな球根をあっさりと捨てていたのに・・・・・・人は変わる生き物である。
 午後は6年前、母が1週間入院し命果てた病院に車で行った。今日6日は母が早朝、救急車で入院した日だ。母が亡くなり、次の年から6日に病院に行くのが常となった。特別室がある9階にエレベーターで行き、見晴らしのいい窓辺から外の風景を眺める。母が入院した時は風景を眺める余裕はなかったが、母が他界する日の朝、小雨交じりのどんよりとした空やはるか下の病院の駐車場をこの窓辺から眺めながら、レオの散歩を代わりにやってくれる人を探して携帯電話をかけていたのを思い出す。朝の散歩を代わってくれる人は見つかったが、夕方の散歩はわたしがしなければならず、家に帰り、レオの散歩をして夕食を食べた後、車で病院に戻ったが間に合わなかった。
 病院に行きたくなかった母は治るなら・・・・・と入院したのだが、治ることができなかった。そのことがひっかかっているのかもしれない。母に会えるわけでもないのに、行かずにはいられなかった。だが今日はその切実な気持ちが薄れたのを感じた。病院独特の消毒薬のような臭いがいつもより強いように思えた。場違いな自分を感じた。

 帰り、花屋さんに寄り、テッポウユリと、オレンジ系の色のアルストロメリアを買った。明日、お墓参りに行こう。花屋の店内には色鮮やかな春の花、スイートピー、チューリップ、ストック、アネモネなどがあふれ、華やいだ気持ちになれた。


盆栽の紅梅
つぼみがふくらんでdきた
わが家に来て6年目だが
だんだん枝数が少なくなり、心細い
今年はなんとかしたいが


病棟の9階からの眺め
富士山がうっすらと見える
目の前は駒沢オリンピック公園