風もないおだやかな年の瀬、2013年12月31日。朝起きてパソコンに向かい、一昨年と昨年の大晦日のブログを読んだ。このブログをはじめたのは2011年10月だから、今回で三回目の大晦日。ブログに記録した2回目までの大晦日は愛犬のレオがいた。
ああ、こんなふうにレオがいた大晦日を過ごしたのだな。昨年は「レオとのおだやかな日が続きますように」と結んでいる。切実な願いのあった昨年の大晦日であった。
今年は切実な願いはない。自分以外の生き物の命をあんなふうに切実に思い、一日でも長くと願ったのはレオがはじめてだったかもしれない。
切実な願いのない今年の大晦日、ある意味で心はおだやかだ。衰えていく命とともに過ごす時間は辛いところもあった。それでもレオとともにいることは大きな喜びで幸せ以外のなにものでもなかった。
紙を送って見るぱらぱらマンガを、最後からはじまりに向かって逆に送るように、ひとりになり、レオとわたしがいて、父とレオとわたしがいて、父母とレオとわたしがいた頃へと、時間を遡った。時が流れて、いまがあり、その先に未来がある。遡ることは心の中でしかできない。
父母はわたしがひとりになっても元気に生活することを強く願っていただろう。最後まで心配しただろうと思うが、なんとか生きて行ってほしいと。その気持ちを思うといつまでも落ち込んではいられない。
これから先、レオはずっといないが、心の中でいきいきと生きている。
午前中は居間や仏間、廊下、トイレなどの掃除をして、お昼には年越しそばを食べた。午後はブログを書いた。3時過ぎに家を出て歩いて駅前に向かった。レオが好きだった犬を飼っていた家の前を通り、その家の方と少し話した、レオはフェンス越しにその犬とよく挨拶をかわしていた。その犬はレオより数年早く亡くなった。
駅前ではいくつか買い物をした。帰りは、以前同じように家に帰る途中、老犬が玄関の外で泣いていた家の前を通り、そのとき置いてあった犬小屋がなくなっているので、心配になった。寒くなったので家の中にいるのだろうか。年を無事に越してくれるといいのだが。
leoleoleoyaの日記は、衰えていく老柴犬レオとの生活を綴って、毎日を大切に生きていくレオがいた日々、その時間を文字に残したいと思い、はじめました。レオ亡き後はレオの最後を綴り、ひとりになってからレオを失った痛手とそこからどのように少しずつ回復していくのかを綴ってきました。
ブログに訪れてくださった方、コメントを寄せてくださった方、はげましのお言葉を下さった方、多くの方のおかげでブログを続けていくことができました。
ブログとは別にメールをいただいた方もおり、たくさんのお気づかいに励まされました。
ありがとうございます。
生きていてよかったと思えるような新しい年になりますように。
「かたわらにレオがいない大晦日いつか来る日と思っていたが」
いけ花教室で活けた花に、庭の千両を加えて
活け直した
玄関の花
今年は黒豆だけを煮てみた
豆の量が多いのでお鍋2つで煮たが
一方はやわらかく、片方は少し固めにできた
煮汁の量が違ったようだ