父の故郷へ従妹たちとともに

 昨日の東京は冷たい雨が降ったようだが、今日は晴天がひろがり気温が上がった。昨夜はぐっすりと6時間以上眠ることができ、旅の疲れも少しとれた。
 一昨日、10月28日から一泊で父の故郷である栃木県・湯西川温泉へ行ってきた。その前夜はなかなか寝付けず、空腹で眠れないかと思い、飲んだり食べたりしたが結局、朝まで一睡もできなかった。柴犬レオが亡くなる前の夜、レオの様子がおかしく一睡もできなかったので、その夜のことを思い出し、精神状態がおかしくなり、父の故郷への旅は中止にしようかとさえ思った。
 なんとか気持ちを立て直し、いっしょに行く従妹たちとの集合時間を遅らせることにして、早朝従妹の一人に電話をした。昨夜まったく眠れなかったので、数時間眠ってから出発したいので、駅での待ち合わせ時間を遅らせたい。乗る特急電車の時刻がわかったら、ケイタイで電話します。従妹は了解してくれた。最初は8時発の電車に乗り、10時に待ち合わせる予定だった。
 特急電車の時刻表を調べ直すと、そんなに時間的な余裕がなかったので、1時間くらいしか眠れず、家を出た。ケイタイで連絡し、午後1時に鬼怒川温泉駅で待ち合わせ。従妹たちは車でやってきて、待っていてくれた。
 一路、湯西川温泉へ。鬼怒川温泉から川治温泉あたりはまた紅葉が進んでいない。現地に電話をした従妹によると、今朝の湯西川は朝の最低気温が1℃まで下がり、霜が降りたので紅葉もそろそろピークを過ぎるとのこと。霜が降りる色づいた葉が黒ずんでくるそうだ。
 山の奥へ、上へと登る道路は整備されている、道路の左右は山また山。右手に鬼怒川が流れ、ところどころにダム湖が見えた。ダムを建設する過程で、道路が整備され、道路沿いの民家の移設があったようだ。湯西川温泉に近づくにつれ、トンネルが多くなってくる。
 従妹が父の若い頃、生家を飛び出したときのことを話してくれた。親類の人たちは家を出る父を止めたそうだ。だが父は本数の少ないバスを待つこともなく、徒歩で湯西川温泉から川治温泉まで歩いたそうだ。70年以上も昔のことなので、道路はもちろん整備されていなくて、トンネルもなく、山のふもとの砂利道(バスは通れる)を歩いたそうだ。それから親族のお葬式と、仕事場の慰安旅行などで訪れる時以外は、里帰りはしなかった。
 だからわたしが父の故郷を訪れるのは今回が初めてだ。父は家族を連れてくることはしなかったから。

 車が止まったのは、温泉場ではなく、湯西川水の郷という観光施設と駐車場があるところ。従妹はここが父の生家があったところと説明した。
 清流が流れ、川の向こう岸には紅葉した山が迫る。川の流れを見ていると、川で捕った魚がおいしかったという父のこどもの頃の思い出話を思い出した。ヤマメが獲れたそうだ。山でとったアケビの話しもした。
 従妹は山や川はお父さんがいた頃と同じだよ、と言った。そうだとしみじみ思う。道路は整備され、川は護岸工事がされ、観光施設ができ、民家はきれいに建て直されているが、川の流れと山の風景は変わらないだろう。
 川のこちら側にはいくらかの岸部がひろがり、わき水が流れる湿地にはクレソンやワサビなを植えたり、桜などの木々を植えて自然公園として整備されている。一角に巨木があり、その根元に井戸がある。従妹はここは村の井戸で、飲料、炊事洗濯、お風呂の水などすべてまかなっていたという。こどもの頃、ここで洗いものをしたらしい。
 この井戸から少し(数十メートル)上流にいったところに父の生家があったという。そのあたりの地面に、東京から持ってきた父の遺骨(粉になっている)を数か所土を軽く掘って埋めた。従妹たちも手ずから埋めてくれた。ここなら、故郷の山河をいつでも眺めることができる。風の音、川音を聞くことができる。
 20キロメートル近い道を歩いて、故郷に背を向けた父だが、亡くなる前は母親の夢を見たり、雪山が出てくるテレビを見て、冬の雪道を学校に通った時のことを思い出したり、故郷をなつかしんだことだろう。こうして骨となって戻ってきたことを喜んでくれるといいのだが・・・・・・。
 わたしにとっても、ここは父の遺骨を埋めた、世界中でたった一か所の、何かのときに訪れる場所になるだろう。

 車にまた乗って、さらに川の上流へと走らせ、湯西川温泉の今夜泊る宿に着いた。このあたりの紅葉の見ごろは10月25日から末にかけて。紅葉と温泉を目当てに訪れた団体のお客さんでてんてこまいの旅館だが、2部屋とってくれて、わたしは一人の部屋になり、そんなにさわがしいこともなくゆっくりとくつろげた。旅館は父の従妹(もう亡くなった)が経営していたが、こどもがいなくて養子を迎えたので、現在は父と血の繋がる親族は誰もいない。ただ、その従妹の代からここには親族がよく泊ったり、時には働いていたので、なんとなく身内のようなところもある。いっしょに来た従妹たちは特に親しいようだ。
 何かの縁と思ったことがある。従妹が言うのは20年ほど前、従妹の父親が亡くなった時、わたしの父が葬儀に訪れたのだがその時泊った部屋が、わたしが泊った部屋らしい。20年の歳月を経て、父と娘が同じ旅館の同じ部屋に泊るのは、そうそうあることではないよと従妹は言った。

 源泉かけ流しのお風呂はちょうどいい湯加減で、夜一睡もできなかった心身の疲れをほぐしてくれた。お湯のやわらかさ、なめらかさ、湯けむりのやさしさを久しぶりに感じた。いつもはなんか義務的にお風呂に入っていたような。こういう時間は必要だな。

 気になるのは従妹のひとりがやはり体調不良で、あまり食べられなかったこと。旅館での夜もほとんど眠れなかったようだ。わたしはぐっすりと眠れたのであるが。
 翌日は元気な方の従妹は朝早くから車で、近くの実家(母親がひとり住んでいたが今は誰もいない)に行き、冬場の凍結に備えて水抜きなどをした。彼女は母親が亡くなったあと、ひと月に一回は嫁ぎ先から車を飛ばし、実家の部屋の掃除や草むしりなどをするそうだ。
 その従妹と旅館から歩いて行ける、平家の里まで行った。今回の旅の唯一の観光。紅葉がきれいな敷地内に藁ぶき屋根の古民家が点在し、中には昔の生活道具や調度品などが展示されている。木をくり抜いて作ったしゃもじや、雪の上を歩くときにはくかんじき、穀物の選別に使うふるいや、木製の平たい入れ物、木のボール・・・・・・。木を切り出すときに使うノコギリ、木しゃもじを作るときの道具類・・・・・・。昔の人は大変だった。見の回りのものはすべて手作りしていた。今なら、ホームセンターや百円ショップで買えるようなものを。
 旅館で休んでいたほうの従妹が言うには、父も山小屋で、木しゃもじを作る作業をしたそうだ。父が生家にいた頃はランプと井戸水の生活。このあたりはお米がとれないので、ヒエ、アワなどの雑穀が多かったようだ。かんじきや、わらで作ったレインコート、蓑(名前を忘れたが調べたら蓑だった)、わら製の長ぐつなども父は使ったのだろう。そう思うと平家の里の展示品が、遠い過去から少し近づいてきたような気がした。

湯西川水の郷から見た風景
父はこういう山々と川のある村で育った


台風が来たためか、川水が多いと従妹たちが言う
水の美しさに驚いた


湯西川温泉


平家の里の入り口近く
園内には藁ぶき屋根の古民家が点在


帰り、車の中から撮影
ところどころにダム湖がひろがる


湯西川ダム
このあたりはまた紅葉が進んでいない
治水、利水のために作られ、
工業用水、生活用水、農業用として
栃木県、宇都宮市茨城県、千葉県の一部に補給される
水力発電はまだ行っていなくて、計画中らしい




湯西川ダムダム湖