庭の柿を少しだけ収穫

 久しぶりに快晴の空がひろがる。秋の光が降り注ぐ庭に出て、メダカにえさをやったり、種をまき芽が出ている鉢を日当たりに移動させた。昨年の今頃ははもうすでに小苗を一つづつ植え替えていたのだが、今年は本葉3〜4枚に成長するのが遅く、植え替えはまだである。
 こちらの体調が良くないのも植え替えが遅れている理由のひとつ。明日は父の郷里にはじめて訪れるというのに、いまいち元気がでない。昨日は夕方まで雨だったので、買いものに一度出たがそれ以外は横になって休養したり、昼寝もした。
 今朝もそんなに体調が回復した感じはないが、庭に出た時、柿の木になった実が野鳥に食われ、食いかけの実が目立つのを見て、高枝剪定ばさみで柿の実を獲った。といっても、熟しすぎた柿とまだ食べるには早い実が多く、ちょうどいいのは鳥たちが食べてしまっている。収穫したのは4個だけ。そのうち一個は熟しすぎていたが母はこういう柿が大好きだったので、ていねいに皮をむいて仏壇にお供えした。あと3つもそのまま仏壇にお供えするつもりだ。
 柿だけは父母がいた頃のほうがたくさんなり(1年おきだったが)、収穫を手伝ってもらって、近所の方に配って歩いた思い出がある。今年は柿の実がたくさんなっている方だが、わたしが高枝バサミでとるのでは取りきれないだろう。植木屋さんに頼めば高くつくし、わたしがやるしかなさそうだ。


収穫した3つの柿
食べるのはもう少し熟してからが良さそう


高枝バサミで取った熟し柿を皮をむき
小さく切ってお皿にのせた
亡き母の大好物
果実の色がきれいなので一切れつまんだが
ものすご〜く甘くて美味


 久しぶりに部屋の中に木漏れ日がさして、揺れる光と影を見ていると、柴犬レオのことを思い出した。レオの幻が見えるような気がする。木漏れ日の中で眠るのが好きだったレオ。わたしはその眠っているレオを見ているのが好きだった。そばにいるのが当たり前だったレオだが、少しずつレオがいないのが当たり前になりそうで、突き刺すような寂しさを感じた。時は辛い悲しい出来ごとの記憶を少しずつ薄れさせ、心の苦しみをやわらげてくれるが、半面には忘れて行くことの悲しみがある。
 レオを忘れて何事もなかったように生きるより、レオを心の中に留めて静かにゆっくりと生きていきたい。もちろん、生きている限り、いろいろな楽しみ、喜びを味わいつつ。