早朝の散歩

 昨日の夕方くらいから空気が入れ替わったようで、1週間くらい(?)続いた蒸し暑さが去って行った。今朝はさわやかな秋晴れ。昨夜早目に眠りについたためか、3時半ごろが目が覚め、しばらく寝床で横になっていたが5時過ぎに起床した。
 6時過ぎになり、半袖のTシャツに長袖のカーデガンをはおって散歩に出た。歩く前は肌寒いくらい。途中、お寺に寄り、お花の水を替え手を合わせた後、散歩を続ける。等々力不動尊まで歩き、まずお参り。境内は竹箒を持った女性の方により掃き清められている。公孫樹の葉とその実が境内の数か所に大きな丸の形に掃き寄せられている。おはようございますの挨拶。気持ちよくお参りができました、ありがとうございます(これは心の中で)。掃き清められた境内は朝の光も清らかに見えるから不思議である。
 等々力駅の方に歩き、駅近くカフェがまだあいていなかったので、さらに目黒通りの方に歩き、途中引き返して、オープンしたばかりの店に入った。10人近く並んでいて、朝の散歩仲間と思われる人もいるがひとりの人が多い。新聞を読んだり、壁際の席でパソコンを広げたり、モーニングセットで朝食をとったり、思い思いに時を過ごしている。ひとりで入ると居心地が悪い店もあるが、この店ではひとりでいることが自然で心地よくさえ思われる。この店は10年近く前、今は亡き親友や柴犬レオと訪れた店で、その日のことも思い出した。
 店を出て、体力的に余力があったので、等々力渓谷を歩き、谷沢川沿いを多摩川方向に歩いた。多摩川の河原は元気な頃の柴犬レオと毎日のように散歩に行ったところなので、思い出すのが辛くレオが他界してから数回しか行っていない。ただ、今朝はあまりに天気がよく、この季節は富士山が眺望できるのではないかと思ったので、河原に降りた。
 思った通り、川向こうに富士山のシルエットが見える。だがここでも時の流れを痛感した。レオと通っていたころにはなかった高いビルがいくつか建ち、その間からかろうじて富士山が見えた。ショックだった。あのときとは同じようで違う風景が目の前にあったから。近い将来、富士山が高層ビルに隠され、全く見えないようになるにちがいないと思い、気持ちが落ち込んだ。
 多摩川の流れはあのときと同じだが、遠くにひろがる風景は変わっていた。下流のほうには高層ビル群が見えるが、これは5年前くらいから建ち始めたものだ。レオが若かった頃はバブル崩壊の後の、デフレが進行していた時期で、ある意味、首都圏にもいまより牧歌的なところが残っていたのかもしれない。それとも年を重ねたので単に過ぎ去った過去がよく見え、なつかしく思えるのだろうか。
 富士山が見えない多摩川の河原なんて・・・・・希望が見えない人生のようではないか。いや、違う希望を見つけることを考えたほうがいいか。


掃き集められた銀杏と落ち葉

秋の光がさわやかな等々力不動の境内

散歩の途中、栗林があり、栗の実がたくさんなっていた

谷沢川と多摩川の合流地点
下流のほうに川向こうのビル群が見える



昨日描いたダリア
実物を見てサインペンでスケッチ、水彩色鉛筆で彩色した