栗ご飯を炊いた

 秋なのに蒸し暑い日、1週間ぶりくらいに朝の長い散歩にでかけた。等々力不動尊まで足を伸ばし、お参りをした。境内には銀杏の実が散乱してして、やはり秋なのだと思った。
 秋の気配が濃厚な境内を歩きながら、思い出したのは今年の1月のこと。15歳と10ヵ月ほどになる柴犬レオのために、お守りを求めて車で不動尊までやってきた。前年の秋ごろからガクっと衰えたレオに、長生きしてねという気持ちだけでも届けたいと思ったからだ。犬の肉球をかたどった飾りと、「交通 安全 厄除 開運」と書いた小さな小判型のプレートがついた、かわいらしいお守りだ。
 このお守りを首輪につけてレオが家の駐車場を歩いている時、姪のこども(男の子)が何をつけているのかを聞いたので、長生きするようお守りをつけたと答えた。レオが春になり一段と衰え、もうだめかもしれないと弱気になったわたしに、その子がお守りがあるから大丈夫だよと言ったのを思い出した。そのとき、そうだといいねと答えたのをおぼえている。
 そんなことを思い出すと、車で等々力不動にお参りに行った今年の1月が無性になつかしい。あの頃は衰えていくレオに不安をおぼえつつも、毎日、レオのためにできるかぎりのことをしていた。もちろん、老犬介護で自分の時間がなかなかとれないことを嘆いてもいたが。

 レオの思い出にひたった散歩から帰り、午前中は何を思ったか栗ご飯を作った。栗ご飯などの炊き込みご飯は亡き母の大好物だが、亡くなる前の年、作らなかったことが気持ちのどこかにひっかかり、毎年、秋になる度に栗ご飯を炊いて仏前にお供えしようと思ってきた。だがこの5年間、父やレオの介護もあり、一度も作ることができなかった。この秋はぜひとも作りたいと思っていた。ほんとうは母がいた最後の秋に、栗ご飯や松茸ご飯を炊いて、食が細くなった母にせめて好物を食べてもらえばよかったのだが、後の祭り。せめてお供えだけでも、の思いだ。
 栗を軽くゆで、皮をむくなど手間がかかり、炊きあがるまで3時間弱かかったが、おいしいご飯が炊けてお供えすることができた。元気な母だったら、おいしい、おいしいと2〜3杯お代りをしただろうが、そんな生前の母を思い出しながら、お昼に栗ご飯を食べた。

 午後は六本木にでかけ、映画を見たが、これについてはまた別の日に書くかもしれない。



昨日の朝も、今日の朝も、朝焼けがきれいだった
これは今日の朝の空、5時半を過ぎた頃
 


これは昨日の朝の空


昨日の早朝の庭