昨日は明治神宮の歌会へ

 いつまでも続くと思った秋晴れの日だが、今朝は雲行きがあやしく、どんよりとした空がひろがる。心の中もどんよりした感じ。先週の土曜日にいけ花展に行った帰り、15歳になったばかりの老柴犬に会ったことをブログに記したが、家に帰ってから、15歳になったときのレオはどんなだったろうと思い、パソコンに保存した写真を見てみた。誕生日の日の写真やその前後の写真を見たのだが、衰えていく過程ではあるが、まだ体重も減っていなく、落ち着いた状態のレオがそこにはいた。歩いている写真は、身体が傾いていて危なっかしく、このときはもうくるくる回っていたのだなと思った。
 裏庭で気持ちよさそうに眠っている写真もあった。その中に、眠っているレオがいる裏庭全体を家の建物の一部も含めて撮った広角の写真があり、(レオの姿は小さく映っているのだが)、その裏庭の光景が胸にぐっときた。一昨日はそのことをすぐ忘れてしまっていたのだが、今朝になって、起きて外に出た時、その写真を思い出し、それからはまぶたに焼き付いてなかなか離れない。
 気持ちが不安定になったので、いつものようにレオの写真を持って、散歩を兼ねたお墓参りにでかけ、歩きながら気持ちを切り替えようとした。昨年と同じ庭にレオがいないこと。レオがいたときの裏庭の(おだやかな幸せそうに見える)光景が、いまはもうないこと。だが、と思い直した。レオがいた、レオが幸せな時間を過ごした庭がまだあるだけでいいじゃないか。災害などで、家族と過ごした家がなくなることもある。こうして、同じようにあることはいくらかでも幸せといえるのではないか。
 こんなことを考えながら、何とか気持ちを立て直した。涙はあふれるが、気が狂ったように歩き回ったりすることなく、落ち着いて今日一日が過ごせるといいのだが。
 と書き進むうちに、雲はどこかに消え、爽快な秋晴れの空になった。日差しは強くて日焼けが心配なほど。散歩の途中で会った床屋のおじさんと話したり、犬友だちから電話をもらったり、花壇の手入れをしているときに道を通りかかった犬友だち夫婦と話したり、短歌の先輩に電話しているうちに、まぶたに焼き付いたレオに心を締め付けられる気持ちが紛れてきた。

 昨日のことを書く。月に一回の明治神宮で開かれる歌会に出席した。11時から3時半くらいまで。9月の兼題は「硝子」。2時間近く粘って考え、一首提出した。62名の方が参加され、この中から「天」「地」「人」の優秀作と佳作7点ほど、講師の方が選ぶ。
 講師の方はすべての作品を講評される。今回は女性の先生だが、かなり手厳しいコメントもあり、だがユーモアを交えているので、ときおり笑いもひろがる。

 「裏庭の落ち葉を掃除するわれ硝子戸から見やる犬のことばなき愛」
  これを提出したが、字余りで歌のリズムが悪いと先生はことばではっきりとは言われなかったが、そうわかるように話された。犬からの視点で読んでいるの
  はおもしろいと言われた。


 「硝子戸を軽くたたけば愛犬は耳を動かしな〜にと言いたげ」
 「硝子戸を透かし木漏れ日揺れ動く秋の日はひとり絵を描きたし」
 「硝子戸の外は大雪愛犬と過ごせし最後の冬の一日」
 提出しなかった短歌も三首



わたしが花が好きなことを知っている近所の犬友だちから、
近くの家でジャカランダの花が咲いていると電話があり、
見に行ったら、見事に咲いていた
友だちは5月か6月くらいに咲く花だと思っていたので
ほんとうにジャカランダ7なのか、見てみて、と言っていた
この時期、こんなにきれいに花が咲いたジャカランダは見たことがない
というより、地植えのジャカランダが咲いているのを見たのは初めて