秋からの葉書がまた届いた

 朝は涼しいを通り越して、寒さを感じるようになった。ここ何日か、毎日の暮らしに行き詰まりを感じている。6月15日に他界したレオと暮らした同じ家、同じ部屋、、同じ庭、同じ環境で、レオがいないのに同じように暮らしていることが出口のない迷路にいるような気持になってきた。
 母がいなくなり、同じ家でレオや父と暮らし、父がいなくなり、レオと同じ家で暮らしてきたが、いまひとりになり、同じように暮らしていくのは無理ではないかと思うようになった。といってもこの家を離れてどこかに行くわけにはいかない。一か月間家を離れたら庭は荒れるだろう。一年離れたら、庭木は伸び放題、雑草の王国みたいになるだろう。
 どこかで気持ちをなだめつつ、切り替えつつ、ここで過ごしていく他なさそうだ。ただ、何日か家を開けることはできるだろう。
 家という生活の基本となる環境だけでなく、レオがいたころ会っていた友人や知人(特に今年の4月から6月にかけて会った人たち)に会うのもときに辛く感じることがある。さらにレオがいたとき、買いものに行った店に行くのも辛く感じることがある。いつもではないが、同じ店に行き、買い物から帰ってくるとあの時はレオはいたと思うと泣き出してしまう。
 こういうすべてが行き詰まり感へとつながっているのだろう。やはり、前と違うことをするように心がけることが必要かもしれない。前と違う店に行き、前と違う趣味を始め、新たな友だち、知人を作り、ときには泊りがけでどこかに行く。もう少し時間がたったら、もっと元気になったら、部屋の模様替えもいいかもしれない。
 ただ、心の中は複雑で、レオがいた頃と同じようにやることは思い出すので辛いが、半面、同じようにしたい気持ちもある。庭木の手入れ、草花の手入れなどはどこかで亡き父母やレオとつながっているような気持になれるので、寂しさを感じながらもやっている。植物という命あるものを育むことで心がうるおうところもある。
 すべてをリセットして一からやり直すことはできないし、かえって心を不安定にするだろうが無理のないやり方で日々の暮らしの中に新しいことを少しずつ増やしていきたいと思っている。

 今朝は朝早く(午前3時過ぎ)目が覚めてしまい、眠れなくなった。悶々とした思いを抱えて眠れぬ時間を過ごしたが、外が明るくなり始めた頃、カーテンを開けると、裏庭に置いてあるサクランボの木を植えた植木鉢に、紅葉した柿の葉が一枚落ちていた。柿の木の葉はまだ緑色で紅葉の気配も見えないのに、一枚だけ気の早い紅葉だ。
 今年も秋からの葉書が届いたと思った。昨年はもう少し季節が進んでから(だったと思う)、一枚のきれいに紅葉した柿の葉が裏庭に落ちたのを見つけ、秋からの葉書のように思い、絵を書いた。同じように今朝、柿の葉の絵を書き、「レオ 秋からの葉書 今年もまた届いたよ」とことばを添えた。
 もしかしたら、この葉っぱはレオと秋からの葉書かもしれないと思った。わたしの気持ちを察したレオからの励ましのメッセージかもしれない、と。


柿の落ち葉をサインペンでスケッチし、
水彩色鉛筆で彩色した



2週間くらい前に拾った銀杏の実とザクロの実を
鉛筆でスケッチし、水彩色絵具で色づけした



柿の落ち葉、銀杏、ザクロの写真



カワラナデシコと切り花用ストックの芽がいっぱい出て生きた
同じ日にまいたネモフィラはまだ少ししか発芽していない
さらに前に種をまいたヤグルマギク、二ゲラ、チドリソウも
ぱらぱらと芽が出てきた



今日は月に2回習うことになったいけ花教室の日
コスモス、紫陽花、花ナス、ドラセラをこんなふうにいけてみた