写真の中に・・・・

 ときどき大きな雲が日を遮るがほとんどは陽射しが照り付ける。庭では油蝉とミーンミーン蝉が盛夏を謳歌している。飛べなくなった蝉があちこちに落ちて羽根を震わせたり
、動かなくなっている。始まりと最中と終わりが混在している夏の庭である。
 早朝目が覚めそのまま起きて外に出ると、細い月が東の空に残っていた。空は少しだけ明るんでいるがまだ暗い。この時間のこの月、柴犬レオがいた頃、よく見たな。午前2時から3時頃の東の空に出てきた月もよく見た記憶がある。だんだん小さくなっていく月は不安な光を放っていた。これから新月になる、はかない早朝の月が胸をついた。
 こんなことを書くと大丈夫かなと思われそうで、ためらいがあるが書いてみよう。
 先週、友だちが家を訪れたとき、帰り際にタイマーを使って記念写真を2カット撮った。そのうちの一枚は、縁側に座り、庭を背景に撮った写真だ。タイマーをかけたとき、液晶画面をチェックしなかったので、向かって左側が空いてて、右側に二人が寄っている不安定な写真が撮れた。空いている場所が晩年のレオがよくあごを木の床つけて寝ていたところなので、空いていることが気になった。
 冗談みたいにどこかにレオがいるんじゃないかなと、ビューラーで空いている縁側を拡大して見たがもちろんいるはずがない。
 そうだよなと思いつつ、ビューラーを写真の他のところに移動させると、えっ。柴犬レオの小さな顔。写真に写っている二人の間、顔の横よりすこし上のところだ。掃き出しのガラス戸に部屋の一部が映りこんでいる。箪笥の上に安置した父の遺影が映りこんでいるのはよくわかる。その遺影の真横にレオの顔が見えた。黒い鼻と、二つの目、二つの耳、顔の輪郭や表情がレオなのである。
 見たい思いがあるから見えるのかもしれない。こうも考えた。友だちは昨年、レオが亡くなる前々日に家を訪れて、先週と同じよう午後をずっと家で過ごした。その日のレオは朝なかなか起きず、最初の食事が午後だったので、友だちがいる時、手作りの食事をわたしの手から食べさせたのを憶えている。ときどきレオが泣くと、友だちとの会話を中断させてレオの様子を見に行った。友だちは大きな声で泣くレオに、元気だねと言った。
 もしかしたら、レオはあのときの友だちが家にまた来たので、なつかしくなったのかもしれない。あのときと同じようにそばにいたかったのかもしれない。
 写真の中のレオの顔は、何かを語りかけているようにも見える。ガラスへの映り込みと庭の紫陽花の葉の陰影が作りだした幻影と思えば、そのようにも思える。だまし絵のような。鬱蒼とした森の絵だが目を凝らすと動物が隠れている。見え始めるとたくさんの動物が見えるようになる。見方が少し変わると、ただの森にしか見えない。
 だまし絵のように写真に現れたレオだとしても、なんかうれしいような。レオがここで暮らしたことを忘れていないのだなと思えて・・・・・・・・


 ここでやめておけばいいのに、デジカメの画像をパソコンで少しいじってみた。ピクチャーで編集するのだがやり方がよくわからない。レオの顔の部分だけを四角く囲み、その部分だけを拡大した。かなり拡大した画像を見ると(レオの顔が大きく写っていることを期待したが)、そこには影と光の広がりだけがあり、何も形になっていない。
 適当な大きさに拡大すると、レオの顔が少し大きくなって写っている。レオの顔は影と光が作り出した偶然の形だった。だがその偶然を生みだしたのは、レオとわたしの思いに違いない。そう考えることにした。

夕方、メダカの餌やりのために庭に出ると、斜めお向かいの家のザクロの木が青々と繁って、葉っぱの間から赤くなり始めた実が光を受けて輝いているのが眺められた。柴犬レオがいる時、ザクロの実がいつの間にか赤くなっているのに気づき驚いたことがあった。あれは8月だったのだろうか。


メダカが暮している甕
親メダカは水底にいて、水面では今年の春から初夏に孵化した
子メダカが泳いでいる



プランターに植えた百日草は2番花が咲き始めた
花は少し小さいが、かえって可愛らしい


庭にはナミアゲハ蝶やモンシロチョウ,モンキチョウなどに交じって
塩辛トンボが訪れるようになった
グラジオラスの支柱にとまっている