「小さき命のぬくもり見えぬ庭に木の葉揺らして秋風立ちぬ」
朝の空にはうろこ雲がひろがり、あたりを秋の風が吹きわたっていた。夏の名残はすっかり消えうせて、身が引き締められると同時に、秋風が心のすきまを吹きぬけていくのを感じた。
昨日の朝、この記事をこんなふうに書き始めたが日中、お墓参りに行くなどしているうちに夕方疲れが出て、続きが書けなくなった。
今日はこの続きから始めたい。保護したつもりの子雀が傷ついたまま行方不明になったことは一昨日のブログで書いたが、子雀がいない庭を眺めて、上記の短歌を詠んだ。「小さき命のぬくもり」には、亡くなった柴犬レオを重ね合わせている。
昨日読んだ寺山修司さんの全歌集におさめられた「空には本」の浮浪児というタイトルの中にこんな短歌があった。
地下道のひかりあつめて浮浪児が帽子につつみ来し小雀よ
住む家も家族も、食べ物もなく、明日の行方さえ分からない浮浪児が、道端で見つけた小雀をどんな気持ちで帽子に包んで持ってきたか。わたしは住む家はある。つつましいにしろ一応の生活を営んでいる。だがいっしょに住む家族はなく、子雀を帽子に包む浮浪児の気持ちがわかるような気がする。
傷つきし小雀入れて紙袋持ち帰りたる浮浪児のごとく
寺山修司さんが残した有名な短歌、「海を知らぬ少女の前に麦藁帽子のわれは両手をひろげていたり」(沖積舎 寺山修司全歌集より)
本歌取りではないが「海を知らぬ愛犬レオとはじめて大桟橋歩いた秋の日よ」
昨日は弟が6月末以来久しぶりに家を訪れた。レオの仏壇にお線香をあげてほしい、と言う」と「レオか・・・・」とつぶやき、レオに対する気持ちの温度差を感じた。弟には弟なりの思いがあるのだろうが・・・・・・。
今日の朝の散歩はおもいきりセンチメンタル・ウォークした。
高熱を出しぐったりしているレオを助手席に乗せ、車をUターンさせた
目黒通りと環八の信号を渡り(この信号から数百メートルのところに病院がある)、
8年前、友だちやレオといっしょに過ごしたカフェに入り(レオはお店の外で休んでいた)、
若い頃のレオとよく足を伸ばした等々力不動尊の境内を歩いた
等々力不動尊の本堂の下に、ソメイヨシノを植えた境内がある
7年ほど前は草木がこれほど繁らず、犬の散歩にとてもいい場所だった
地面が踏み固められ、桜の木が弱ったので、(草木が繁る)自然な状態に戻し、
桜の木を養生させている
コナラやクヌギの木が樹林をつくり、
地面にはドングリがたくさん落ちていた
きれいなドングリをひろって家に帰った