夏が戻ってきた

 昨日と今日は蒸し暑く、日差しも強くなって、夏が戻ってきた感じだ。真夏の日差しの肌をつきさすような強さはないが、縁側にさす木漏れ日も秋の日とは違う雰囲気があり、カーテンで日差しをさえぎった。
 昨日の朝は少し暑かったが、いつもより遠くまで散歩した。等々力駅前にあった、早朝数回入った店が閉店したので、すぐ近くにあるドトールに入り、ひと休みしたのだが、この店に柴犬レオとやってきたことを思い出した。レオは店の中には入れなかったので、ガラス張りの店内からよく見える入口近くの、道路から少し入った場所にリードでつないで待たせていた。
 その日は風が冷たい1月の中旬で、いまから8年8カ月くらい前のことだ。東京に住んでいた親友が、実家のある新潟に引っ越すのでその前に会おうということになり、わが家に遊びに来て、その帰り、レオと散歩がてら寄り道しながら等々力駅まで歩いてきた。帰りのバス停が店から近い所にあったので、その店に入った。
 わたしたちはガラス張りの壁にいちばん近い席に座り、ときおりレオを見ながら、話した。友は東京と新潟なんてそんなに遠くない。食べ物がおいしい冬に遊びにいらっしゃいよと言ってくれた。わたしは外にいるレオを気にしながら話していた。
 店を出てバス停まで友を、レオといっしょに送って行ったが、わたしはなんかもう会えないような、すごく寂しい気持ちと、ぽっかりと胸に穴があいたような喪失感を味わっていた。友だちを見送りながら後ろ髪をひかれるというか、なにか言い忘れたこと、やり残したことがあるような気持になった。バスに乗って去っていく友を元気に見送ったが、心の中はまったく別の感情に占められていた。
 その友は実家に帰ってから、肺に腫瘍がみつかり、抗ガン剤の治療を何回か受けたが進行が早く、その年の10月に他界した。その間、電話とメールでやりとりしたが、新潟まで行って会うことはしなかった。このことが今も悔いとなって残っている。こんなに早く、という思いだが、闘病生活を送る友を励ますことができたかどうかはわからないが、顔を見るだけでも行けばよかった。
 友と最後に会った店で昨日はコーヒーを飲みながら、店の外にレオの幻を見て、友とも心の中で再会した。


その友だちは猫を飼っていたが、わが家に遊びに来てレオとときどき散歩するうちに、犬はやはりいいわねとよく言っていた。レオのことをかわいがってくれた。レオを好きになってくれた友だちがいないことは(レオより先に逝ってしまったのだが)、レオが死んでしまうとなおさら寂しく感じられる。

友が残した俳句を二句
「秋日傘かかげ老女は絵のごとし」
「こほろぎや深夜の街を包みけり」

わたしの拙い句も二つ
「秋めいてなおさら会いたし亡き犬に」
「こほろぎがなく川べりに時は流れ」

朝晩が涼しくなったら、花壇に植えた草花も元気を取り戻し
花の色あいも冴えて深みが出てきた
亡き母や柴犬のレオが、庭を訪れているのではないかと思うこともしばしば


暑さのためか枯れたジニアを抜いて
新しくコスモスを植えたら
秋らしい花壇に生まれ変わった
昨年の同じ頃の花壇の写真を見たら、今年のほうがきれいに思えた
植えている草花は昨年は黄色やオレンジのジニアではなく、黄色いマリーゴールド
赤いケイトウではなく、赤の葉ゲイトウを植えていたが
他はほとんど同じものを植えている
今年はコスモスとピンク色のペンタス、タネをまいて育てた千日紅が加わっている


初夏に咲き、暑い夏は休んでいた
赤いダリアがまた咲き始めた


2009年9月の柴犬レオ
庭が見える和室に置いた
自分のベッドの上で気持ちよさそうに眠っている